二十九日 太上皇・欽宗、北へ連行される
- 太上皇(徽宗)と欽宗の鑾輿が北へ発った。「曹勛北狩聞見録」は、二月七日、上皇が「皇帝の帰還のため南薫門で拝表せよ」との誘いに応じて外出したところ、金軍に取り囲まれて青城の陣中へ拉致された顛末を詳しく伝える。上皇は郊宮に留め置かれ、国相へ「張覚の投降と処断は先例に従ったまで、罪は嗣君(欽宗)の失政にある、自らは南方の一郡で祖先の祭祀を続けさせてほしい」と嘆願の劄子を送ったが、金は聞き入れなかった。三月七日、張邦昌の即位を知った上皇は「邦昌が節を守って死ねば社稷はまだ保てたものを」と嘆いたという。
- 三月二十九日、上皇と欽宗は別々の道で燕京へ護送されることとなり、宗廟に望拝して別れを告げた。景王ら皇族も同行し、道中で燕王が食料不足のため薨じるなど惨状が伝えられる。二太子(斡里雅布)は上皇に酒を勧め「いずれ楽しい時が来る」と慰めたが、上皇は「兄弟の間柄が今日は虜囚となった、運命というほかない」と答えたという。郭薬師・張令徽ら旧臣も上皇に謁見し慚愧の意を示した。
- 「靖康遺録」は、二帝が上皇・鄭皇后一行、欽宗・朱皇后一行など四組に分けられ、鉄騎に護送されて北行したことを記す。
- 大元帥府は黄潜善の間諜李宗の報告(張邦昌擁立・偽詔・赦文などの文書)により初めて京師陥落と廃立の詳細を知り、諸路の兵に金軍の帰路を邀撃し二帝を奪還するよう檄を発した。京師の情報を聞いて動揺を煽った侯章は捕らえられ斬られ、軍民がその屍を引き裂いたという。宿遷県では勤王のため集められた土兵・弓手が王嗣に扇動されて反乱し、沂州荘子城を掠奪した。
四月一日 金軍、京師より完全に撤退
- 金軍は連夜寨柵を焼いて撤退し、邦昌は范瓊に城池の交割を命じた。京師の人々は金軍撤退を知り登城して見物したが、二帝の連行を悲しんだ。邦昌は路允迪ら帰還者に恩数を給した。
四月二日 邦昌、四方への撫諭の書を発す
- 邦昌は「二聖が北に遷られ、京城は君主なきまま半年に及んだ、やむなく理国を引き受けた」旨の手書を諸方の官吏に送り、大元帥の所在を尋ねさせた。趙野・范致虚・翁彦国・劉光世らへの使者派遣の経緯が記され、一部の使者は現地で拘束された。邦昌は密かに探事官の進言を容れ、諸軍への使者派遣を図った。
四月三日 邦昌、修城司を設置
- 邵溥を都大総管として城壁の修復にあたらせた。范瓊は城外を捜索し、金軍が遺棄した財貨・米穀・家畜、および置き去りにされた老幼・病人・婦女らを城内へ移した。
四月四日 邦昌、大赦を布告
- 赦文は「二聖が郊外に留め置かれ、推されてやむなく理国を代行した」と釈明し、罪の軽重を問わず釈放するとともに、園陵の視察・祠廟の祭祀継続・諸州守臣による防備・勤王兵の帰還・宗室の存恤などを定めた。「秦湛回天録」は、呂好問が「赦令は四方に及ばず、城外はすでに金の勢力圏にある、権攝の身で赦を出すのは僭越ではないか」と諫めたのに対し、邦昌が「銭氏の呉越のような前例もある」と応じたとの逸話を伝える。