三朝北盟會編靖康中帙 靖康二年 1127年

二十九日(続)張叔夜の事跡と遷都建議

  • 張叔夜(字稽仲、開封の人)の経歴が詳述される。文武に長け、知海州として宋江の乱を平定、済南府で群盗を鎮圧するなど武功を重ね、靖康の初めに南道大総管として一万三千の兵を率いて入京、金軍と京西で十八戦して連勝した。城陥後は僉書枢密院・京城四壁提挙として奮戦を続けたが、廃立に際しては孫傅とともに趙氏存続を繰り返し上奏し、南薫門で拝泣して訴えた。尼堪は「孫傅はすでに殺した、年老いた貴殿は異姓推戴の状を出せ」と偽って迫ったが、叔夜は「累代の国恩に殉ずる、死を待つのみ」と拒み、子仲熊とともに北へ連行され、享年六十三で金国にて没したという。
  • 「張叔夜家伝」には、叔夜が上奏した遷都策(長安・襄陽への遷都案)の詳細な劄子が引かれる。要旨は「関中は歴代の王業の地だが遠すぎるため、当面は襄陽に駐蹕し、山川の険を頼みに中原へ号令すべき」というもので、京師から襄陽までの駅程、城池の整備、財政・人事の具体的な措置案が列挙される。あわせて、勤王の遅参や敗戦の責任を自ら省みる自劾の劄子、郭京の妖術への懸念を再三上奏していた経緯を記す劄子も収める。
  • 金は御史中丞秦檜・侍郎司馬朴も釈放せず、廃立への異論などを理由に一族ともども北へ連行した。