三朝北盟會編靖康中帙 靖康二年 1127年

四月四日 邦昌、元祐皇后への尊号奉戴を布告/胡舜陟、邦昌に退位と皇后垂簾を勧める

  • 邦昌は百官を文徳殿に集め、元祐皇后(哲宗の廃后)を「宋太后」として延福宮に迎える意向の書を示した。哲宗朝以来の経緯を述べ、二帝が北遷した以上、旧例に倣い元祐皇后を推戴して秩序の回復を図る内容であった。
  • 諸路の勤王軍が次第に京師近くに達し、江淮発運判官向子諲の派遣した王儀の軍が到着すると、邦昌は范瓊に命じて犒労させた。
  • 侍御史胡舜陟は劄子を上げ、「陛下(邦昌)が位に即いたのはやむを得ぬ権宜であることは天下周知である、金がすでに去った以上、速やかに退位して元祐皇后の垂簾聴政を請い、大臣として康王を迎え入れるべきだ」と正面から進言した。

四月四日 耿南仲ら、大元帥府で康王への勧進を上表

  • 門下侍郎耿南仲・元帥汪伯彦・副元帥黄潜善以下の幕僚・諸将は「二聖が北に連行され、宋の祭祀を継ぐべきは康王をおいて他にない、天命人心はすでに定まっている」として即位を強く勧めた。康王は席を避けて涙を流し固辞したが、諸将は重ねて奉迎の意義と即位の急務を説いた。汪伯彦らはさらに、康王への使命授与時の瑞祥(玉帯授与・靖康の元号の字義・済州の紅光など)を挙げて天命の兆しを強調した。康王は「二聖を迎え中原を回復することこそ本志」と応じ、なお即位そのものへの言及は避けた。

四月五日 元祐皇后、延福宮に入る/各地の勤王軍、京師に集結

  • 張叔夜の申状により、瑶華宮にいた元祐皇后(隆祐太后)は金軍の侵入を避けて延寧宮、さらに火災を機に観音院近くの私第へ転居していた経緯が記され、この日ようやく延福宮に迎え入れられた。
  • 江淮発運判官傅亮、北道総管宣撫使配下の王淵らの軍が京師に到着した。大元帥府は諸路の勤王軍に対し「京師近くに集結し指揮を待て、一兵たりとも独断で入城し掠奪を働くな」と厳命した。
  • 徽猷閣直学士何志同・趙子崧・翁彦国は壇を築き血をすすって勤王の同盟を結んだ。趙子崧は檄文で「張邦昌は金の先導役を務めた逆臣であり、討伐に協力せよ」と諸軍に呼びかけた。
  • 呂好問・張所は蝋書を大元帥府に送り、太学生楊愿らも上疏して情勢を伝えた。河北の山寨で義兵を率いていた「馬某」なる人物の忠義譚(金軍と互角に戦い、捕らえられても金の懐柔を拒み、官職ではなく田畑を求めて隠棲した逸話)も併せて記される。