四月七日 邦昌、康王へ弁明の書を送る
- 邦昌は寺観に聖寿節の道場を設けさせる一方、蔣師愈らを遣わして康王に長文の咨目を送った。「自分は金軍の脅しにより已むを得ず擁立を受け入れた、二帝北遷を知って自害を図ったが果たせず、百官にも『社稷を保つための権宜の措置』と説かれ、亡国の汚名を負ってでも宗廟を存続させることを選んだ」と自らの立場を釈明する内容であった。康王は返書で「事の次第を知り、忠節を疑わなかった」と応じ、使者を厚遇した。宗室の趙叔尚も兵七千を率いて京師近くに到着した。
四月八日 邦昌、太学の士に恩賞/馮伸之、邦昌に速やかな是正を求める
- 邦昌は太学の士に恩賞を与えた。監察御史馮伸之は「陛下(邦昌)が死を賭して位に就いたのは、金軍撤退後に必ず復辟すると信じられたためである。今は速やかに衣冠を改め、太后に政務を委ね、康王を迎えるべきだ」と厳しく諫める上申を行い、邦昌はこれを容れて改める旨を伝えた。
- 兵馬大元帥府は郡県に檄を発し、「二聖の遷幸は前代未聞の恥辱であり、諸軍は河梁を断ち金軍を挟撃して二聖を迎え還すべし」と各地に号令した。
四月九日 邦昌、元祐皇后の垂簾聴政を正式に請う
- 邦昌は侍従官と協議のうえ、手書をもって元祐皇后に垂簾聴政を請い、自らは太宰として補佐する意向を示した。
- 「回天録」は、呂好問が早くから元祐皇后の地位回復を主張し、邦昌に対しても「即位の体裁を避け、内東門の閣子に控えて衣服も質素にし、いずれ太后に政権を返す形を整えるべき」と密かに助言していた経緯を詳述する。孫傅・張叔夜も元祐皇后の居所(延寧宮の火災など)を巡る事情を上奏していた。呂好問は自らの発案が疑われることを避け、病と称して事の表面には立たなかったという。
- この日、元祐皇后は延福宮に入り禁中を開放、囲城半年で初めて城門が開かれた。邦昌はそれまでに出した諸路の赦文と、四日に発した「宋太后」推戴の手書を撤回し、馮澥・李回を奉迎使副に任じ、王時雍・呂好問・徐秉哲・李回・呉幵・莫儔らはそれぞれ旧職への復帰を願い出た。当初は儀仗を整え権勢を誇っていた面々も、情勢の変化を悟り質素な形に改めたという。