三月六日 呉革の救駕計画、発覚し処刑される
- 陝西統制官呉革は靖康元年以来対金強硬派として活動し、城陥後も皇太子救援や上皇還御を図る密議を続けていた。二年三月、張邦昌册立を目前に、呉革は同文館に集めた数千の義勇(両河の壮士ら)を率い、諸門から出撃して劉家寺・青城の金営を攻める計画を立て、蝋弾で在外の勤王諸将と呼応を約した。
- 三月六日未明、班直の崔広・崔彦らが呉革に決起を迫り、呉革はやむなく甲冑を着けて出陣したが、金水河西で范瓊・左言の兵に阻まれ、呉革父子ともに斬られ、従う使臣数百人も河畔で殺された。呉革は最期まで屈せず、忠義の言を吐いて死んだと伝えられる(宣和録・遺史・偽楚録など複数史料が事跡を伝える)。
- 「偽楚録」は、呉革が官米を用いて壮士を養い決起を図ったが、事前に密告され失敗した経緯、および同時期に別の一派(髙士謩・趙子昉ら)も救駕を企てて捕縛されたことを記す。
三月七日 張邦昌、僭位して即位す
- 尚書省庁で百官・僧道・軍民の会同のもと、册宝が軍前より届き、邦昌は号泣しながら受册の儀に臨んだ。「靖康要盟録」に引く册文は、金の天会五年の年号を用いて宋の失政を非難し、張邦昌を「大楚」皇帝に立て金陵に都させる旨を述べる。
- 邦昌は文徳殿で百官の拝賀を受けたが「臣は生霊のためにやむを得ず立つのみ」として拝礼を辞退しようとし、王時雍らが強いて拝礼させた。王時雍・呉幵・莫儔・徐秉哲・范瓊ら擁立派はそれぞれ要職(尚書省・枢密院・門下省・中書省など)を得た。呂好問だけは終始憂慮の色を隠さなかったという。
- 「朝野僉言」は、呉幵・莫儔が金の意を伝えて大臣を脅し、范瓊が兵で軍民を抑えて擁立を強行した経緯を批判的に記す。
三月八日 邦昌政権、官職を任命
- 胡思・葉宗諤・李回・胡直孺・范宗尹・謝克家ら旧臣に対し、留任・復職・落職などの人事が発令された。
三月九日 百官、常朝に列す/邦昌、三省枢密院の権官を任命
- 邦昌は王時雍に尚書門下省、徐秉哲に中書省・枢密院、呉幵に尚書左丞相、莫儔に尚書右丞相、李回に枢密院、范瓊に四廂指揮使などを権任した。
- 「遺史」は王時雍が邦昌に「陛下」と呼びかけて諂う様を記し、「靖康小録」は王時雍・王及之・王紹の三名が擁立を推進した経緯(「三王」と呼ばれ士大夫の顰蹙を買ったこと)、御史馬伸が龍徳宮の宝物流用を諫めた逸話を伝える。「靖康後録」は、邦昌が「陛下」と呼ばれることを恥じ、金への謝意を伝える使者を送ろうとしたが軍前に拒まれた顛末を記す。