十日 李通、旧職復帰/金軍、興仁府・濮州を攻める
- 中書舎人李通が旧職に復し、胡直孺は権職を免ぜられた。金軍は興仁府・濮州へ攻撃を仕掛けた。
十一日 邦昌、金人を禁苑で饗応/范致虚、千秋地場で敗走
- 張邦昌は禁苑で金の使者を饗応した。陝州にいた范致虚は千秋鎮に前軍を屯していたが、金の奇襲を受けて大敗し、輜重を捨てて敗走した。「編年」は、尼堪が「范致虚は儒者に過ぎず用兵を解さない」と侮り、少数の斥候で破れると読んで的中させたと記す。同時期、興仁府の張換、濮州の閭丘陞、開徳府の孔彦威らはそれぞれ金軍を撃退し勝利を収めた。
十二日 張邦昌、手詔で受禅の苦衷を述べる
- 邦昌は自らの即位を「不徳の身が大国に迫られ、民を兵火から救うためやむを得ず理国したまで」と釈明する手詔を発した。
- 金は諸路への布告文で、廃立の経緯(孫傅らの推戴上奏、張邦昌への打診、邦昌が固辞し自裁を図った様子、百官の懇請、册命に至る過程)を長文で説明し、天会五年三月七日の受册をもって国号を大楚、都を金陵とする旨を布告した。
十三日 交納物資の管理体制を整備
- 邵溥ら郎官四員に南薫門下での物資受け渡しを管理させ、呂好問が門下省の職事を権領した。工部侍郎何昌言は邦昌の名を避けて何善言と改名した。鮮于可・朱震は致仕した。
十四日 邦昌、金銀督責の緩和を懇請
- 邦昌は軍前に書を送り、「囲城の間すでに民間の金銀は出し尽くしており、これ以上の督責は民を死に追いやる」として催促の緩和を求めた。
- 宗沢は退却して南京に駐屯する范訥・趙野に書を送り、「重望の大臣が兵を擁して自衛に終始し、京城近くまで進んで金軍への圧力を示さないのは人臣の道に反する」と厳しく詰り、進軍を促した。
十五日 邦昌、青城の金将へ謝意を伝える
- 邦昌は軍前へ赴き二元帥に謝意を述べ、宗廟・陵寝を毀たないこと、金帛の額を減らすこと、金軍撤退後の遷都などについて協議した。国子祭酒らに百官の職務を従来通り継続させた。
十六日 趙子崧、大元帥府へ急報と進言
- 趙子崧は、二聖・二后・諸王・卿相が正月以来金の陣中に留め置かれ北へ連行される恐れがあること、三月上旬に張邦昌の擁立が行われたらしいとの噂を報告し、大元帥(康王)に対し「渡江して南に逃れるべきという議論を退け、諸路の兵を集めて黄河沿いで金軍を迎撃し、二聖を奪還すべき」と強く進言した。