三朝北盟會編靖康中帙 靖康二年 1127年

二十一日 金、宗室引き渡しの期限を厳達

  • 大元帥(康王)は任城県に宿営した。北兵は南下を嫌い、椅子や机で街路を塞ぎ放火を謀ったが張俊が首謀者を斬って鎮めた。
  • 金は移文で「南班宗室官は二十五日までに全て引き渡せ、一人も漏らすな」と厳達し、開封府の使臣が市中を隈なく捜索して宗室を拘束した。

二十二日 山口鎮での放火未遂

  • 大元帥は山口鎮に宿営。済南府の民兵からの密告により、放火を謀った軍民の首謀者が捕縛・処刑され、他は金帛・酒食を与えられて鎮められた。

二十三日 大元帥、済州に到着/各地勤王軍の対陣

  • 大元帥は済州に至り、官民の出迎えを受けた。「中興記」は、宗沢・閭丘陞・黄潜善・趙野范訥・向子諲・趙子崧ら勤王諸軍が済州・曹州・南京などに分散して京師を包囲する形をとりつつも、同時進撃の号令や敵の誘い(曹輔・張澂らの説)への疑心から進軍をためらった様子を伝える。
  • 金は太学録の黄豊・楊愿の引き渡しを求めたが、両者は病と称して免れた。

二十四日 梅執禮ら四人、金銀根括の責を負い処刑される

  • 金は金銀供出の不足を理由に、四壁提挙根括官の礼部尚書梅執禮・開封府尹程振・工部侍郎陳知質・給事中安扶を尼堪の面前で処刑し、首を南薫門に晒した。督促官の胡唐老・胡舜陟・黎確らも鞭打たれた。
  • 「遺史」によれば、四人は当初「金銀は既に出し尽くした」と結罪状を提出して打ち切りを図ったが、金は民間の隠匿を疑い、米麦との交換相場を設けて実態を試したところ、隠匿していた金銀が多数持ち込まれたため、四人の責任を問い処刑に至った。「僉言」は、実は四人が密かに二聖奪還を図っていたことが露見し、金銀の名目で処断されたとの説も伝える。
  • 「宣和録」は、この間に金が搬出した金七万五千余両・銀百十四万余両・表段四万八千余疋という規模、および官吏への金銀督責の過酷さを記す。

二十五日 官品に応じ金銀・表段の供出額を科す

  • 大風で砂塵が舞う中、金は執政官・侍従官以下、官の序列に応じて金銀・表段の供出額を定め、期限に遅れれば一家を軍前に連行すると布告した。

二十六日 夜、白気が北斗を貫く

  • 天変の記録のみ。

二十七日 大元帥府、鹽鈔の発行を措置/唐恪、服毒して死す

  • 済州の大元帥府は軍費調達のため、随軍使梁揚祖の建議により塩鈔(塩の引換券)を発行し、囲まれた京師に代わり周辺州軍で塩の流通を図る策を講じた。
  • 前宰相唐恪が服毒死した。唐恪は耿南仲に付き李綱を排して和議を主導したが、金軍再来の予見が容れられず失脚し、この頃夫人を喪ったこともあって自裁したという。若い官吏が「宰相でありながら国事を誤り、亡国の醜態を演じている」と面罵したとも伝えられる。

三十日 呉幵・莫儔、張邦昌の入城を予告

  • 呉幵・莫儔は「明日邦昌が入城して人心を観る、もし不測の事があれば城内を血の池とする」と警告し、尚書省庁と西府に受け入れの準備がなされた。

三月一日 張邦昌、南薫門より入城

  • 御史台の旧例に従い百官が南薫門に出迎え、范瓊らの兵が沿道を警護する中、張邦昌は申刻に入城し尚書省庁に入った。
  • 「僉言」は、邦昌が当初廃立の推戴を知らず、尼堪から文書を示されて「趙氏に罪なくして廃されるとは」と驚き固辞したこと、金が「趙氏の太子を立てて邦昌を輔佐とする」と偽って入城させた経緯を伝える。入城後、王時雍らに推戴を迫られた邦昌は自害を図ったが周囲に止められ、「衆議に従う他ない」として渋々応じたという。

三月二日 金、三日以内の擁立を厳命/事務官の任命

  • 金は「三日以内に邦昌を立てなければ城を殺戮する」と文書で迫った。留守司は馬夀隆・李熙靖・洪芻・呂好問ら十数名を事務官に任じ、体制を整えた。

三月三日 推戴状を軍前に提出

  • 官民・僧道・耆老を集めて推戴の意思を確認し、留守司は推戴文状を大金元帥府に提出した。

三月四日 留守司、七日の册命を布告

  • 「今月七日に册命の礼を行う」旨が布告された。

三月五日 尚書吏部、册命当日の参列要件を布告

  • 選郎以上の文臣・承信郎以上の武臣らに、册命当日の参列を漏れなく徹底するよう命じた。

三月六日 閤門、册命の儀礼次第を布告

  • 七日に文徳殿で行う册命の儀礼手順(入場・拝礼・受册・起居称賀など)が細かく定められた。