三朝北盟會編靖康中帙 靖康二年 1127年

二十一日(続)李若水・王履の最期をめぐる異本証言

  • 従者謝寧の証言:二月六日、尼堪が蕭太師らに命じて欽宗の御衣を脱がせようとした際、李若水がこれを阻止し「これは大朝の真の天子である、無礼を働くな」と叫んで殴打され気絶した。その後は青城の廊屋に軟禁され、蕭太師らの説得にも応じず、十六日・二十一日と尼堪に呼ばれて激しく詰り、最後は縛られて南郊近くで処刑された。遺骸は四十余日後に発見されたが変色していなかったという。
  • 建炎元年、朝廷は李若水に観文殿学士を追贈し家族に恩沢・銀絹を賜与、後に諡「忠愍」を贈った。その趣旨の詔勅・臣僚の上奏文が併せて記される。
  • 「靖康小雅」は李若水の経歴(政和八年及第から太学博士、対金使節としての太原派遣、閏十一月の城陥後の扈従、二年二月の廃立時に尼堪を面詰し処刑されるまで)を詳述し、費樞の文集序や子の李浚・李淳の跋文も引かれ、忠義の士として顕彰する。
  • 別伝として、若水が地方官だった頃、夢で「鉄冠道士」から関羽の書を託されたという逸話、また上より「若氷」の名を「若水」と改名された経緯も記される。
  • 副使王履(字坦翁)についても事跡が詳述される。開封の人、元符年間の上書で左遷された経歴を持ち、宣和年間に対金使節として太原・軍前をたびたび往来した。閏十一月に城が陥ちた後、尼堪が酒を勧めた際「国事を戯れにしてよいものか」と杯を地に投げつけて怒りを買い、幽閉された。二十一日、李若水とともに軍前へ召され、激しく罵って処刑された。享年四十八。処刑時、天を仰いで長嘆し、従者の鄭福に「娘娘(皇后)に、天への借りを返したと伝えよ」と言い残したと伝えられる。建炎元年、保寧軍節度使を追贈された。斡里雅布も両人の忠義を嘆じたという。