十四日 呉幵ら、張邦昌擁立の許可文書を齎す/宗室の捜索
- 呉幵・莫儔が軍前から文書を持ち帰り、百官の推戴を金が許諾し、册立の儀礼手順を伝えた。金は同時に親王・帝姫・駙馬・南班宗室の引き渡しを求めた。
- 「遺史」は、金が真定府陥落時に得た内侍鄧述を使い、あらかじめ皇族・宦官の名簿を作らせて廃立を準備していた経緯を伝える。孫傅は文書を隠そうとしたが、名簿がすでに金側にあることを知り断念、宗室の引き渡しに応じた。徐秉哲は使臣に命じて隠れた宗室を捜索させ、開封府の捕吏竇鑒は「大宋の宗族を金に売り渡すに忍びない」と自ら首を吊って死んだ。
十五日 秦檜を軍前へ連行/推戴表の起草/呉革の救駕計画
- 御史中丞秦檜は廃立に異議を唱えた咎で軍前へ連行された。軍器少監王紹が推戴表を起草し、金主の徳と張邦昌の器量を讃える文言を連ねた。
- 統制官呉革は、皇后・太子が既に城を出たことを受け、啓聖院に「賑済所」を設けて義勇を募り、軍法で部勒した。数日で応募者は万を超え、呉忠・徐偉ら太学生も加わった。呉革は密使を大元帥府へ送り、在外の勤王軍と挟撃して二帝を奪還する策を図った。
- 孔彦威が、離反を企てた常謹(武翼大夫)を大元帥府に密告し、王命により謹を討ち取って軍情を鎮めた功で官職を与えられた。
十六日 金人、留守司に政務継続を指示/宮中の財宝接収/太学生の徴発
- 金は曹少監・郭少傅を派遣し、徐秉哲とともに京師の政務を管掌させ、百官には従来通り官署で執務し軍糧も支給を続けるよう指示した。
- 金は内蔵の元豊・大観庫の簿籍や大内・龍徳宮の珍宝を悉く接収した。内侍王仍らが尼堪に財宝の所在を教えたためという(僉言)。
- 金は経術に通じた太学生三十人の供出を求めた。応募者には利を求めて群がる者も多く、後に無能・不誠実を理由に六十余人が退けられるなど、士人の恥ずべき有様が記録された(遺録)。
十八日 大元帥府、諸路への勤王催促を再発
- 大元帥府(康王)は京師の消息が途絶えたことを憂い、興仁府・開徳府・南京などへ再度檄文を発し、諸路の勤王軍に日を約して京師近くへ進軍し、声援を通じて連携するよう命じた。軽率な単独進撃は禁じ、各地の守備も維持させた。
- 金は経教・徳行に通じた僧数十人の供出も求め、開封府は寺院から選んで軍前へ送った。
二十日 康王、東平府を発ち済州へ/金、金銀の再捜索を強化
- 大元帥府の軍議により、康王は東平府を発って済州へ向けて進発した。出発前夜、南下を嫌う北兵が放火で軍を混乱させようとしたが張俊が鎮圧した。
- 金は根括官吏に対し金銀供出が不十分だとして再度厳しい捜索を命じ、市中の動揺は続いた。宗室・宦官・宮嬪の護送も二十日を経てなお終わらなかった。
二十一日 尼堪、李若水・王履を招致し廃立を議し、両人死す
- 尼堪は吏部侍郎李若水と副使王履を呼んで異姓擁立への同意を求めたが、両人は激しく罵り拒んで殺された。
- 「靖康忠愍…事迹」は李若水の生涯を詳述する。曲周県の人、政和八年に進士及第、太学博士などを歴任し、宣和末に対金使節として太原・大金軍前へたびたび赴いた。靖康元年閏十一月、京城陥落後も上皇に扈従し、二年二月の廃立に際しては尼堪の面前で「金国はかつての和議に背いた」と抱きついて激しく詰り、殴打され気絶しても屈せず、二十一日に処刑された。享年三十五。建炎元年、観文殿学士を追贈され、諡は忠愍。金の武将斡里雅布も「南朝にこれほどの人物がいたとは」と嘆じたという。
- 王履(字坦翁)も同様に廃立に抗して罵倒し、処刑された。開封の人で、元符年間に上書して朝政を論じ左遷された経歴を持ち、宣和末に国信副使として李若水とともに軍前を往来した。処刑時、天を仰いで歌を詠み従容として死に就いたと伝えられる。享年四十八。建炎元年、保寧軍節度使を追贈された。