十一日 皇后・皇太子、金軍陣中へ移送
- 金は皇后・皇太子の引き渡しを強く迫り、正午過ぎに車十両で出発した。百官・軍民が州橋南で号泣して轅にすがり、南薫門では太学生も哭声をあげた。范瓊が衛士を脅して強行させたという。「宣和録」は、正月に上皇が再び敵陣へ赴いた際、孫傅が太子太傅として東宮保護を託されており、黄金五十両で太子を民間に匿い、身代わりの死者の首と宦官の屍を軍前へ送って偽装しようとしたが、都人の争いで発覚し失敗した経緯を伝える。孫傅は「わが太子太傅の義は太子と生死を共にすべき」と述べ、子の説得も退けて留守司の事務を後任に託した。
- 孫傅は朱氏(太子)に従って南薫門へ赴き、二将に面会を求めたが軍中は皇后・太子のみを求め、夜通し門下に留まった末、翌暁に尼堪の命で軍中へ入った。
- 「遺史」は、呉革が太上皇以下の出城を悲しみ、身代わりの内侍を太子に仕立てて脱出させる策を孫傅に進言したが容れられず、皇后・太子はそのまま出発したと伝える。燕王・越王を引き留めようとした百姓は范瓊に殺された。皇后・太子の車が出る際、百官・万姓・太学生が道で哭送し、宮嬪の徒歩随行者も見られたという。
十二日 尼堪、孫傅・張叔夜を軍前に召喚
- 尼堪は張叔夜を呼び「孫傅はすでに殺された、貴殿は年老いて一族も多いから異姓擁立に同意せよ」と偽って迫ったが、叔夜は「累代の国恩に報い、死を待つのみ」と拒んだため金人もその義を認めたという(遺史)。
- 呉幵・莫儔が軍前から入城し、留守司に対し「文武百官・僧道・耆老・軍民を集めて張邦昌擁立を協議し、期限内(十三日)に連署して推戴せよ、趙氏を推すことは許さない」との元帥府指揮を伝達、榜文で布告した。
十三日 秘書省での集議、張邦昌推戴の連署
- 開封府は榜文で文武百官・宮観人・僧道・軍民耆老を宣徳門に集め、百官は秘書省、僧道は宣徳門外西闕、軍は大晟府に分けて張邦昌推戴を協議させた。王時雍は范瓊に秘書省を包囲させ、異論を封じた。太学生らは反対の意を示したが、范瓊に抑えられた。
- 集議では姓名を空欄にした推戴状が用意されたが誰も書こうとせず、左司員外郎宋斉愈が「金人が示唆する軍前の南官」を張邦昌と解し、自らその名を記して衆に示したため、皆それに倣って連署したという(遺史)。
- 御史中丞秦檜は独り、張邦昌推戴に反対する上奏を提出した。要旨は「趙氏は建国以来百七十余年、徳沢は民に厚く、光武・劉備・李克用の例のように必ず再興の英雄が現れる。金が滅ぼした遼の遺臣の讒言に乗じて宋を滅ぼせば、その禍は金自身にも及ぶ。張邦昌は上皇朝で権幸に阿り国を誤らせた人物で、天下は服さない。元帥は衆議に流されず嗣君の位を復すべきである」というもの。秦檜は自ら軍前に赴くことを願い出た。
- 百官の推戴上表の要旨も添えられ、「金の詔旨により張邦昌を主とせよとのことなので推戴する、他に賢人を選ぶ場合も軍前の指揮に従う」とした。