大元帥府、勤王軍の配置(六日以降)
- 康王配下の大元帥府は、金軍の京師包囲網(連珠寨)に対抗するため、東平府・開封府・濮州・興仁府・広済軍・単州・柏林鎮など各地に総勢十六万七千の兵を分散配置した。楊惟忠を都統制、副元帥宗澤・黄潜善らがそれぞれ地域を統轄する体制が定められた。
七日 孫傳ら、趙氏存続を求める第一・第二の上奏
- 同知枢密院孫傳らは金の廃立通告に対し、震撼しつつも「太上皇以下は指示に従い軍前に赴かせるが、嗣君(欽宗)の失政は姦臣に誤られた結果であり、廃絶には忍びない」と趙氏存続を懇願する上奏を行った。金銀供出の継続や、異姓擁立が民心を得られず戦乱を招く恐れも論じた。
- 第二の上奏では「趙氏の一族から賢者を選び藩屏とすることも考えられる、神宗の子孫からの選出も一案」と代案を示した。
- この日、太上皇・皇后・諸王・妃嬪・公主・駙馬らが青城の金軍陣中へ強制的に移送された。「宣和録」「幼老春秋」「靖康後録」など複数の史料が、徐秉哲・王時雍らが太上皇を脅して出発させた経緯、沿道の民が悲嘆した様子、太上皇と欽宗が青城で対面し号泣した逸話(太上皇が「お前が老父の言に従っていればこの禍はなかった」と述べたとも)を伝える。連行された皇族(鄆王・粛王・景王・済王・康王・莘王ら諸王とその夫人、多数の帝姫)の名が列挙される。宮中の宝璽・書画・珍宝も併せて接収された。
八日 呉幵・莫儔、推戴文書の提出を督促
- 金は改めて「趙氏以外の賢人を推戴せよ」と迫った。孫傳は第三の上奏で「本国の現任官はいずれも凡庸で人望を得られず、異姓を立てれば必ず内乱を招く」と抵抗しつつ、最終的な選定は金の元帥府に委ねる姿勢も示した。京師の在野の人々(郭鐸ら)も連名で趙氏存続を訴える上書を出したが、金は態度を変えなかった。監国の名で市中の武装禁止・流言禁止の榜文も出された。
九日 孫傳、なお趙氏擁立を懇請
- 孫傳らは重ねて「趙氏の徳沢はなお民に及んでいる、異姓を立てれば天下が服さない」と訴える上奏を行ったが、金は「期限内(十一日)に一人を共同で推薦せよ、さもなくば後悔することになる」と最後通牒を突きつけた。市中では皇族の連行が徐々に知れ渡り、人心は動揺した。四壁の統制官范瓊は動揺する軍民を「誰が主でも飯は食える」という趣旨の言葉で強引に鎮めたが、恨みの声は絶えなかったと記される。
十日 百官、南薫門で慟哭して嘆願
- 孫傳・張叔夜以下百官・父老が南薫門に集まり慟哭しながら嘆願書を提出した(第五の上奏)。金は「今月十一日までに共同で一人を推薦せよ、さもなくば重ねて悔いを見ることになる」と重ねて期限を強調した。
十一日 百官、張邦昌の擁立を上申
- 進退窮まった留守司の百官会議は「今日の事態を凌がねば城内の生霊が皆殺しに遭う」として、軍前に留め置かれていた元宰相張邦昌を推戴することで一致した。孫傳は第六の上奏で「本国の在朝の官はいずれも器量不足であり、軍前におられる張邦昌を国事にあてられたい」と申し出た。この時、孫傳・張叔夜は連署を拒んだと記される。