三朝北盟會編靖康中帙 靖康二年 1127年

二十七日 康王捜索の詔、香薬などの接収

  • 中書舎人張澂が蠟封の詔を携え、開徳府の宗澤の陣を訪れ康王の所在を尋ねたが、康王は既に他所へ移っており要領を得ずに戻った。金は宮中の香薬・薬物・象牙・犀角、蔡京・童貫・王黼家の妓女、大晟楽の楽工らを接収した。

二十八日 帰還の期待と失望

  • 雪が晴れ、百官が皇帝の帰還を期待して南薫門に集まったが、何の消息もなかった。謝克家は皇帝を思う詞を作り、聞く者は皆涙した。京東転運判官閭丘陞らが勤王兵を率い、濮州・曹州で金の遊撃騎兵を撃退した。

二十九日 宮中什器・工人の接収続く

  • 金は薬餌・祭器・遊戯具に至るまで根こそぎ接収し、儀仗・楽器・工匠まで軍前へ送られた。徴発される女性・技術者の別離の哀号が街に響いたと記される。

三十日 大規模な人的・物的接収の一覧

  • この日、金は画工・医官・楽工・大工・玉匠・宦官など数千人規模の人員と、金輅・玉輦・法物儀仗・皇后の車輅・宰相百官の朝服・書籍・図籍・古器物などを網羅的に接収した。皇族・貴族に仕えていた女性たちが車で連行される際、同行の官吏らを「国を壊した張本人が今度は我々を金の慰み者に差し出すのか」と罵倒する場面が記される(「封氏編年」)。

二月一日 没収財産の廉売

  • 譚稹・高俅・楊戬ら旧権臣の邸宅・財産を売却し、その代金で米を廉売して民を救う施策が取られた。

二日 妃后・伎楽人などの追加接収

  • 金は妃后の服飾・琉璃器、内官・伎楽人の家族なども重ねて要求。開封府の追捕は苛烈を極めた。

三日 糶米場の増設、絹・生糸の供出

  • 監国(皇太子)は糶米場を数十カ所増設した。金は絹・生糸を大量に徴発した。

四日 金銀督促の再強化

  • 金銀の納入が要求の一部にとどまっていることが問題視され、開封府が再度の徴発を布告。内官・医官・楽官の隠匿金銀の摘発をめぐり、金元帥が激怒し軍を差し向ける騒ぎとなった。

五日 太学生黄時偁の上書、欽宗と二帥の擊毬の会

  • 太学生黄時偁は尼堪に長文の上書を送り、内侍・伶人らの私利私欲による誣告(隠匿金銀の密告)を批判し、皇帝の速やかな帰還と両国の信義維持を訴えた。
  • この日、二帥は欽宗を擊毬(打毬)の会に招いた。斡里雅布が自ら打毬を披露し宴を催したが、欽宗が帰還を願うと尼堪は「どこへ行こうというのか」と冷淡に応じ、送別の言葉に「天命がこうである以上どうにもならぬ」との不吉な発言をしたと伝わる。何㮚も強い不安を覚えたという。

六日 金、突如「異姓の擁立」を通告

  • 金は翰林学士呉幵・莫儔を遣わし、正式な文書で「宋の失信により趙氏の帝位継続を認めず、賢人を選んで新たな藩屏とする」との方針を通告した。欽宗は「今日こそ帰城できる」と信じて出立の準備をしたが、途中で急遽引き止められ、香案を設けての北面拝礼を強いられた後、宰執・従官ともども各々監視下に置かれた。
  • 「偽楚録」に引かれる金の国書は、「宋は再三の背信を重ねた、汴京とその周辺は許すが、新たな賢人を選んで藩屏とせよ、趙氏一族はこの議論から除く」との内容であった。この通告は留守孫傳・王時雍・徐秉哲・范瓊らのみに秘かに伝えられ、市中には知らされなかった。
  • 兵部侍郎李若水は、金が欽宗の御服を脱がせようとした際、身を挺して抱きとめ「これは大朝の真の天子である、外臣たるお前たちに無礼は許さぬ」と叱責し、乱打されて昏倒するという壮絶な抵抗を見せた。司馬朴も大義を説く書を金の二帥に送った。孫覿は帰城の途上、鉄騎に取り囲まれ抑留される仲間を目の当たりにし、事態の急変を悟った。