三朝北盟會編靖康中帙 靖康二年 1127年

十九日 武器製造の禁止

  • 開封府は、民が防衛を口実に刀器を鍛造し騒動の火種になることを警戒し、鍛冶屋に無断の武器製造を禁ずる榜文を出した。

二十日 風雨激化、民の祈祷

  • 開封府は「天候回復後の打毬の会を待って帰還する」との布告を繰り返した。市中では諸王・百官から庶民まで焼香・祈祷を行い、南薫門には香煙が絶えなかった。焼身・断指などの苦行で祈る者も多かった。

二十一日 流言の禁止

  • 帰還の目処が立たぬ中、城内では流言が広まり、夜間の金兵の掠奪に対し民が反撃し殺傷する事件も起きた。開封府は流言・不正取引を厳しく取り締まる榜を出した。

二十二日 動乱の煽動者十七人を処刑

  • 皇帝不在への不安から兵器の要求や私的な武装が横行し、朝廷はこれを扇動したとして李寶ら十七人を捕らえ処刑、市中に晒した。呉革は再三、金軍陣中への使者として直談判を志願したが認められなかった。

二十三日 銀の目減り、質屋営業の強制再開

  • 徴発した銀を鎔かし直す過程で五十万両相当が目減りし、その補填が求められた。閉店していた質屋の営業再開が強制され、応じない場合は密告に懸賞金が出された。
  • 城内の飢餓が深刻化し、監国の皇太子は米・薪の廉価販売所を増設した。この頃、集英殿修撰范致虚が陝西五路の兵を率い潼関を突破して勤王に向かっていた。「封氏編年」によれば、范致虚は実戦経験に乏しく、還俗僧趙宗印(僧兵部隊「尊勝隊」「静勝隊」を編成)らの奇策に頼るなど軍規は乱れがちだった一方、「散金歌」を金軍陣営に流し金兵の厭戦気分を煽る策も試みた。京城陥落の報に動揺する軍中の噂を范致虚が強権的に抑え込んだ逸話も記される。
  • 「唐衆家集」には、知同州某(公)が范致虚の遅延を三度にわたり書状で叱責し、関中防衛の危機(潰兵の招集困難、諸関の防備不足、財政窮乏、西夏の乗じた侵掠など)を具体的に指摘し、諸路合同での防衛体制構築と勤王軍の迅速な派遣を強く求めた経緯が詳しく記される。

二十四日 諸軍の駐屯配置

  • 知濱州董誼・知隷州某がそれぞれ兵二千を率い襲慶府・東阿県に至り、大元帥府の命で単州に駐屯することとなった。

二十五日 技能者・妓女らの大量徴発

  • 金は医師・楽人・宦官・妓女など多数の人員の引き渡しを求めた。開封府は牙婆(仲介業者)を使い旧権貴の家の伎女や民間人まで捜索・徴発し、親子・夫婦が引き裂かれる悲惨な光景が各所で見られた。

二十六日 何㮚の帰還と米の廉売、儀仗の接収

  • 何㮚が金軍陣中から戻り、「議事が終われば帰城する、民の困窮を憂い米・薪の廉売所を増設した」との皇帝の言葉を伝えた。相国寺などに設けられた糶米場では民が殺到し、軍人の割り込みを防ぐため男女別日制が敷かれた。
  • 金は皇帝の儀仗・法駕・楽器・書籍・古器物・図籍・印刷版木などを網羅的に接収し、教坊の楽工・医師・技術者数百家、さらに女性(宮人・伎女・権貴の家の女子)まで数千人規模で徴発した。開封府尹徐秉哲は徴発対象の女性を着飾らせて送り出すなど、悪名高い役割を担ったと記される。鴻臚寺からは経典の印刷版木千七百枚も接収され、燕人が「掠奪が過ぎれば後世の批判を招く」と尼堪に進言し、書籍・文物の接収に転じたとの逸話(「燕雲録」)も付される。