三朝北盟會編靖康中帙 靖康二年 1127年

十七日 太学生汪若海の上書

  • 太学生汪若海は尼堪に長文の上書を送った。「金が宋を滅ぼすより親善を保つ方が万世の利となる」と説き、力による征服には限界があること(「勢は必ずしも従わせられない」)、人心が趙氏に帰していること、名分の定まらぬ武力では天下を得られぬことなどを、楚の荘王が陳を封じ直した故事などを引きながら論じた。城門の老父が「今の皇帝は仁宗に似る、死してでも守れ」と民に説いた逸話も紹介し、金軍に皇帝の速やかな帰還を強く求めた。

太学生徐揆、上書して殺される

  • 皇帝の帰還が遅れ人心が動揺する中、太学生徐揆は執政の許可なく独断で南薫門から金軍陣中へ上書に赴いた。書は楚荘王の鄭伯赦免の故事を引き、金銀の要求が既に民の窮乏を極めていることを訴え、皇帝を返還し師を退くよう懇請するものであったが、徐揆は尼堪の面前で激しく議論した末に殺害された。「靖康小雅」は、単身で百万の敵中に赴いたその気概を「敵の気勢を呑むもの」と讃える。

徳安府の防衛(潰兵の攻撃を陳規が撃退)

  • 京師陥落後に潰散した軍(王在・祝進ら)が徳安府に迫った。知安陸県事陳規は、逃亡した知府に代わって権知府事となり、崩れた城壁を応急補修し、火計や守具を工夫して十七日間の包囲を凌ぎ、賊軍を撃退した。

開封府、擊毬の名目で帰還延期を布告

  • 開封府は「金の元帥が擊毬(打毬の遊興)の会に皇帝を留めている、天候回復を待って還る」との榜文を出した。この夜、曹門外で金兵の城内掠奪や放火があった。

十八日 金銀供出の督促激化と困窮の深まり

  • 金銀の供出はいよいよ苛烈を極め、親王・帝姫から一般官吏に至るまで細かく担当が割り振られた。金の皇族の従者が官吏を杖打ちするなど侮辱行為が横行し、供出が滞れば官吏を殺すとの脅しも公然と行われた。
  • 皇帝の抑留が長引く中、物価は暴騰(米一斗千二百文など)し、餓死者が続出、犬猫まで食べ尽くされる惨状となった。民は焼身・断指などの苦行で天に祈り、皇帝の帰還を願った。
  • 「宣和録」によれば、金は「打毬が天候不順で行えない」ことを帰還延期の理由とし、実際には河北・南京(応天府)での戦況不利を受け皇帝を人質として利用する意図があったとも噂された。
  • 大元帥府では、黄潜善が二太子への書簡による交渉を提案したが、耿南仲は「金の勢いが盛んな今は口舌で曲直を争うべきでない、康王は外に威望を養い動静を測るべき」と反対した。結局、向子諲の使者柳珪が金に書を送ったが、金側は強硬な態度を崩さず、交渉は不調に終わった。