三朝北盟會編靖康中帙 靖康二年 1127年

進士段光遠の嘆願書(正月十六日)

  • 進士段光遠は金軍陣中に上書し、『左伝』『礼記』を引いて「親仁善隣」「軽財重礼」の徳を説き、金軍の恩義に感謝しつつ、金銀供出の過酷さで民が疲弊している実情を訴え、皇帝の早期帰還を懇願した。

劉韐、金への出仕を拒み自尽

  • 金は劉韐(前資政殿学士)にその名声を頼りに出仕を強要したが、劉韐は「貞女は二夫に事えず、忠臣は二君に事えず」と拒絶し、正月十六日、沐浴・着替えの後、衣の帯で自ら首を吊って死んだ。金側もその忠節に感嘆し丁重に葬ったという。
  • 子の劉子羽の証言によれば、劉韐は靖康元年冬、京城四壁守禦の任にあたり、金軍来襲前の和議締結と康王を兵馬元帥として天下に勤王を呼びかける策を献じたが、後に唐恪・何㮚らの主戦論により職を落とされるなど処遇が二転三転した。欽宗の再度の出郊(二度目の青城行き)の後、金は「皇帝は帰されず、新たに異姓の君主を立てる」との意向を示し、劉韐に協力を求めたが、劉韐は使者に遺書を託し自尽した。
  • 「靖康小録」によれば、劉韐は真定府の守りを固め金軍の攻撃を退けた実績があり、のち京城四壁守禦を担い、東壁・北壁で力戦した。京師陥落後も禁中の警護にあたったが、和議成立後に金へ抑留され、枢密院に軟禁された。欽宗が軍中に留められたままとなった正月、金は韓政を通じて出仕を促したが、劉韐は「忠臣は二君に事えず」と断り、自尽した。金側は当初その遺体の扱いに怒りを見せたが、後に落ち着き、子の劉子羽らが百日を経て遺体を回収し、生前のままの姿で埋葬したと伝わる。今上(高宗)の即位後、特進資政殿大学士を追贈され、諡は忠顕とされた。

宇文虚中撰・劉韐神道碑

  • 宇文虚中による神道碑文は、劉韐の生涯を詳述する。建州の出身で元祐元年進士。方臘の乱では越州の防衛に功を挙げ、靖康年間には太原陥落後に河東宣撫副使として真定を守り抜いた。
  • 燕雲回復をめぐる対金外交では、当初から金との共同軍事行動に一貫して反対し、「敵と共に事を図れば後患を免れない」と童貫らに警告していたが容れられず、結果的に燕山攻略は失敗し金の増長を招いたことが記される。
  • 靖康の京師攻防でも「和議による時間稼ぎ」を献策したが宰相に退けられ、京師陥落後は金軍陣中に抑留された。金が異姓の擁立を仄めかし出仕を促した際、劉韐は毅然と拒絶し自尽した。碑文は「忠臣不事二君」の節義を称え、燕雲経営の失敗の責が太上皇個人にはなく、当時の廷議の誤りにあったことも弁明している。
  • 碑文の末尾には、劉韐の生涯の事績(地方官としての善政、辺境統治での功績、方臘討伐、太原・真定での防衛)を讃える銘詩が付され、遺族(妻李氏・呂氏、子の劉子羽・劉翼・劉翬、娘婿祝可久ら)の消息も記される。