三朝北盟會編靖康中帙 靖康二年 1127年

元日 太上皇への朝賀、百官の金軍への賀礼

  • 欽宗は延福宮の太上皇に朝賀し、百官・僧道に南薫門から金軍陣中へ賀礼に赴くよう命じたが、尼堪はこれを制止した。旧来の元旦儀礼(諸国使節の入賀の様子)が回想的に紹介され、包囲下での正月に親王が敵陣で賀礼を行う異常事態が対比的に描かれる。済王・景王が金軍から金銀を得て帰り、尼堪も子(真珠大王)を遣わし宮中に賀正した。

二日 国子監での焼香、権貴の家の隠匿摘発

  • 金人二十一人が国子監で孔子廟に焼香した。権貴の家(高傑・高伸兄弟)による金銀隠匿が発覚し、高伸は落職、高傑は降格処分を受けた。

三日 兵馬大元帥、東平府に至る

  • 康王は正月を華県で過ごし、東平府に到着。安撫使盧益らの出迎えを受け、民衆も歓呼して迎えた。

四日 金使の講義、河北・河東への再割地詔

  • 金使蕭慶が都堂で月令・洪範の講義を聴いた。朝廷は河北・河東の割地をなお拒む州県に対し、早期の開城・降伏を促す詔を重ねて発した。詔は「石州は既に帰順し家族を返還した、他州も速やかに従うべき」と説き、抵抗を続ければ社稷にとって禍となると論す内容であった。南京(応天府)は金の要求に応じ、金百両・銀二万五千両・絹一万四千疋を供出した。

五日 康王、泰山への奉祀

  • 康王は欽宗・太上皇の安否を憂い、泰山廟への奉祀官を遣わした。耿延禧が撰した祝文が引かれ、靖康年間の困難と皇室の苦難を嘆き、神仏の加護を祈る内容が記される。

七日 厳寒

  • 雨雪と寒さで道が凍り、人馬とも通行できぬほどであった。

八日 何㮚、金軍への嘆願も失敗

  • 何㮚は金軍陣中で金銀・絹帛の減額を懇願したが、尼堪に拒まれた。朝廷は督促を一層強め、開封府・御史台・大理寺が官品を問わず金銀未納者を拘束・拷問し、市中には号泣する声が絶えなかった。

九日 欽宗、太上皇と面会。再度の出郊が決定

  • 欽宗は延福宮で太上皇・皇后と会食した。金は徽号を加える議を口実に再度の出郊を求め、何㮚がこれを主導したため、朝廷は十日の出郊を決定した。呉革は「天文の兆しが不吉、再び出れば留め置かれる」と何㮚に諫めたが容れられなかった。

十日 欽宗、再び青城の金軍陣中へ

  • 皇太子が監国、孫傳が留守となり、欽宗は青城へ赴いた。「鴻門の会」を再現するかのような危うさが識者に指摘される。青城では待遇が一変し、供応も乏しく、警護も厳重で軟禁同然の扱いとなった。欽宗は孫傳に「万一の際は勇士を募り太上皇・太子を奉じて南へ脱出せよ」と密かに託した。金主への徽号奉呈という名目も明かされ、河北軍民に向けた自立・抗戦を促す手詔も発せられた。

十一日 金帛不足を理由に帰還が延期

  • 絹・金銀の供出数が要求に満たぬとして、欽宗の帰還が引き延ばされた。開封府は御史台・百官・宮人・商人に至るまで細かく供出対象を定め、市中は騒然となった。金は儀衛を大幅に減らし、親王・宰相・学士院・礼部・太常寺の官のみを留めて他を帰した。李若水・司馬朴らが両元帥のもとに残された。

十二日 上元の灯飾の接収

  • 金は上元節(小正月)の観灯を口実に、宮中・寺観の灯飾(琉璃・金珠など)を根こそぎ接収した。

十三日 枢密院編修官らの嘆願書

  • 胡程・余覚民らが金軍陣中に嘆願書を送り、寛大な処置を求めた。太学生数百人も南薫門で上書しようとしたが、朝廷側に阻止された。欽宗が青城で三日絶食していたとの噂が都に広まり、人心は動揺した。夜間、皇帝の質素な暮らしぶり(粗末な氈と杌子のみ)を目撃した郎官の証言が痛切に記される。河間府・広信軍・保定軍・霸州・安粛軍の守将らが兵を率いて康王のもとに参じた。

十四日 諸王・公主家の財産接収

  • 留守孫傳は太上皇の許可を得て諸王・公主家の金銀・宗廟供物までも徴発した。王文昌が権貴・官吏に向け、財を惜しんで君主を危機に陥れることを痛烈に批判する書を送った。欽宗は夜、孫覿らを召して詩を作らせ、憂悶を紛らわせた(「帰」「回」の韻で作らせたことが暗示的とされる)。孫覿の詩に「莒に在りし時を忘れず」の句があり、これが金側に伝わって帰還がさらに遅延したとの説も付記される。

十五日 金軍、劉家寺で観灯の宴

  • 帰還を待つ都人に向け、金側は「供応は丁重にしているが金帛の額が定まらぬだけ」と布告した。金は劉家寺に欽宗を招き上元の観灯の宴を催し、教坊の楽人・雑劇などを催した。宴席の祝辞には「七将が渡河して百万の禁旅を潰し、八人が塁に登って千仞の堅城を破った」との誇示の言葉があったと記される。