宗澤、北京に至る
- 知磁州宗澤が兵二千を率いて北京(大名府)に到着し、副元帥の職務にあたるよう康王から命じられた。
二十三日 金軍、書籍を接収。曹輔、康王を捜索
- 金は監書・蔵経、蘇軾・黄庭堅の書、資治通鑑などの書物を大量に接収した。
- 簽書枢密院事曹輔は康王の所在を探すため興仁府に至った。「朝野僉言」によれば、金は既に廃立の意図を抱いていたが朝廷はこれに気付かず、何㮚が曹輔を遣わした。搜索を警戒し、詔書は礬水で衣の襟に隠し書きされた。曹輔は途中、曹州知事曽懋に真相を明かすため衣を裂いて示したという。
二十四日 金軍、犒軍のための金銀・絹の供出を強く要求
- 尼堪・斡里雅布は書を送り、府庫検分の結果絹約一千四百万疋があると把握しているとして、当初合意した一千万疋の速やかな引渡しを迫った。金一百万錠・銀五百万段・絹数百万疋という規模が示され、各壁の受納官が定められた。隠匿への密告には報奨が与えられ、奴婢が主人を告発しても罪に問わないとされた。
- 河北都運使張慤が知大名府に任じられたが、随軍供給の任のため実際には別の官が代行し、副元帥宗澤に随行することとなった。知洺州王麟が兵を率い北京に至ったが老母を理由に帰任を願い出、後に洺州は金に降り軍民に殺されたと伝わる。
二十五日 失われた人々の捜索、康王の相州包囲
- 金に拉致された人々の家族が身元確認や身請けのため軍前に殺到し、数万人が集まる騒ぎとなった。斡里雅布は眼病を患い、宋の医官による治療を求めた。
- 金は康王が相州にいると知り、汪伯彦の子・壻を人質に取って包囲した。既に康王は北京に移っていたため難を逃れたが、先に相州の豪族(田氏・李氏・羅蘭氏)に義兵召募のため配布した官牒が、結果的に金への服従の証として利用されてしまったことが記される。
- 大雪の中、百官の轎の使用が特別に許可された。天宝寺で火災があり民家五百余戸が延焼した。
二十六日 官爵の売買による資金調達
- 金銀の未達を憂慮し、官爵・僧道の紫衣・師号を売る詔が出された。金軍は国子監に入り書物を接収、王安石の学説に関する書は特に廃棄されたという。
二十七日 大相国寺への焼香、副元帥宗澤の開徳布陣
- 金人二十一人が大相国寺に焼香に訪れた。同寺の僧守一が金軍陣中で問答の末に円寂した逸話が付される。
- 副元帥宗澤は磁州・洺州の軍民兵を率いて開徳府に布陣。陳淬を都統制、劉浩を前軍、尚功緒を左軍統領などとする軍制が定められた。
二十八日 使者への賻贈、募兵の不正発覚
- 金は先に殺害した使者劉晏ら四人への賻贈(銀・絹各五百)を求めた。知博州孫振・知深州姚鵬らが兵を率いて元帥府に参じた。
- 監察御史張所の名で募兵に当たっていた呂剛中・呂時中兄弟が、実際には集めた兵数を偽り、朝廷から支給された資金(交子三十万緡)を横領していたことが発覚し、大名の獄に下され宗澤のもとで償わされることとなった。
二十九日 万歳山の建物解体による薪の供出、康王の北京発
- 寒さに苦しむ民のため万歳山(艮嶽)の建物・花木を解体して薪とすることが許され、民が殺到する中、圧死者も出る混乱となった。丁時起はこの善政が現場の不手際で害となったことを嘆いた。
- 康王は幕僚と今後の方針を協議。宗澤は開徳府へ直行して京師包囲を解く進軍を主張したが、汪伯彦は兵力不足を理由に東平府での態勢立て直しを提案し、康王はこれを容れて東平府へ向かうこととした。副元帥宗澤は先に開徳へ、康王本隊も出発した。
- この頃、京師陥落後に潰散した禁卒の一部(王在・党忠・薛広・祝進ら)が京西・河北一帯で略奪を働き、随州・徳安・郢州などを荒らしていたことが付記される。