五日 金軍、馬一万匹を徴発
- 金は開封府に良馬一万匹の供出を命じ、隠匿する者は軍法に処すとした。執政以下の高官も一匹を残すのみで七千余匹が徴発され、士大夫も驢馬や轎に頼らざるを得なくなった。金兵八千人が入城し都省・朝堂に駐留、両河の地界引渡しには文武官各二十人が随行、陳過庭が交地都提挙となった。
六日 軍器の徴発
- 陥落時に投棄・隠匿された兵器の供出が命じられ、応じない者は軍法とされた。武具庫の物資は数日かけて運び出された。
七日 潰兵の招集、軍器再徴発
- 潰散した使臣・軍兵の再編・収容が図られた。郭京・傅臨政らが募った無頼の兵は戦にも守備にも役立たず国費を浪費したのみと批判される。軍器の隠匿には改めて告発褒賞制度が設けられた。
河北・河東の地界引渡しと開封府の金銀還付
- 陳過庭・折彦質が両河の地界割譲交渉に赴いた。開封府は先に徴発した金銀の代わりに官爵の証書(告身)や度牒を民に還付する策を講じた(官職ごとの換算額が細かく定められた)。
九日 諸路への撫諭使派遣、河北・河東守臣の人質化
- 金軍撤退決定を伝える使者が諸路に遣わされた。金は河北・河東四十五州の守臣の親族を人質に取り、割地完了まで抑留した。蔡京・童貫・王黼ら旧臣の家族も引き渡しを求められ、開封府は所在を調査して対応した。
十日 府庫の全面供出令
- 「府庫のものはすべて金軍のものである」として、皇后家をはじめ京師の公私の財貨を犒軍(金軍への贈与)に充てる詔が出された。隠匿者は軍法に処すとされ、前執政以下の官に至るまで供出額が細かく割り当てられた。
十二日 権貴・豪商への財貨供出の督促
- 開封府は戚里・権貴・豪富の家に財貨の全面供出を求める榜文を掲示。隠匿の告発には報奨金が与えられた。従政郎陳符が率先して酒楼の銀器を供出し表彰された。
十三日 鄭皇后家の隠匿発覚、指揮使らの処刑
- 鄭皇后の実家が金帛を隠匿したとして先祖の官職剥奪の詔が下った。開封府の督促は苛烈を極め、拷問も行われた。城陥落時に欽宗を強引に脱出させようとした指揮使蔣宣・李福・盧萬が処刑された。金軍への酒・匠人の供出も続いた。
十四日 兵馬大元帥、相州を発つ
- 康王(兵馬大元帥)は蠟書による督促を受け相州を出発、諸将と入援の経路を協議した。黄河の氷結状況や金軍の陣地配置を踏まえ、慎重に迂回路(元水鎮方面)を選ぶ議論が記される。臨漳県での宿営中に付近で不審火があり、金の間者を疑う場面も描かれる。
十五日 康王、黄河を渡る
- 黄河の氷が再結した好機をとらえ、康王一行は元水鎮で渡河した。渡河中に糧車の一部が氷の割れ目に沈む被害もあったが、無事に渡り終えた。京師では金の要求する絹一千万疋の供出のため、内蔵・元豊左蔵庫などの絹が総動員され、質の悪い絹を金側が突き返す一幕もあった。尚書省で火災が発生した。
十六日 康王、北京(大名府)に至る
- 途上、金の斥候騎兵に遭遇する危機があったが、機転で難を逃れた。康王は寒さに震える将兵を気遣い、自らの衣を分け与えるなど将士の心を掴んだと記される。北京(大名府)に着き、知府張慤・北道総管顔岐らの出迎えを受けた。頴昌府は金軍に陥とされ知府何志同が逃走、韓琦の旧邸に逃げ込んだ数千の住民は殺戮を免れたという。東道総管胡直孺は勤王に向かう途上で金軍に捕らえられた。金は澤州の高世由・河東の張友極を占領地の統治に用いる意向を示した。
十七日 房銭の再免除、地界割譲使の再派遣
- 民の負担軽減のため公私の家賃が再び一ヶ月免除された。金に抑留されていた地界割譲使の再派遣が行われた。
十九日 金銀供出の督促強化
- 御史台・大理寺・開封府が金銀供出の未達を厳しく取り締まり、身分の高い者にも容赦なく拷問が及んだ。金銀と茶塩鈔の換算率が公示され、隠匿の摘発が徹底された。神霄殿の金輪(仏具)まで供出に充てられた。
二十日 金銀の受け渡しをめぐる摩擦
- 金側の受納官が難癖をつけて何度も返品するため、賄賂で便宜を図ろうとする使臣の姿が記される。
二十一日 官舎を壊し薪として民に配布
- 民の燃料不足を憐れみ、官舎を壊して薪として売る策が取られた。金は当初、城内での樵採を許さず、夜間に「平安鼓」を打たせて民を威圧していた。
二十二日 万歳山の竹木伐採を許可
- 大雪の中、万歳山(艮嶽)の竹木の伐採が民に許可され、多くが殺到した。知信徳府梁揚祖が兵一万を率い北京に到着、部将張俊の武勇が評価され元帥府統制に抜擢された。