十二月一日 降表の起草
- 金は蕭慶を遣わし降表を求めた。欽宗は当初「和を請い藩と称する」程度の文案を望んだが、金は四六駢儷の格式高い降表を要求。孫覿・呉幵らが起草に難渋し、何㮚も加わって完成させた文には「一統の基、たちまち藩籬の守りを失い」「上皇は罪を負いて播遷し、微臣は身を捐てて命に聴く」などの卑屈な表現が連ねられた。
- 金は文中の「大金」の呼称や「宇宙」の語(「大金もまた宇宙内にある」との理由)にまで介入して修正させ、最終的に欽宗はこれをすべて受け入れた。孫覿は後年の辞退上奏文で、この一件が自身の名誉を傷つけたことを弁明している。
- 大寒の中、随行の官吏は衣服も乏しく野宿同然の扱いを受けた。城内では黄旗による「平安」の報が繰り返し伝えられ、民の不安を鎮めようとした。兵馬大元帥府(康王)の開府も記され、上皇が禅位に際し欽宗に授けた玉帯を、欽宗がさらに康王への餞として与えていたという経緯が付される。
二日 欽宗、尼堪・斡里雅布と対面
- 欽宗は斎宮で二帥(尼堪・斡里雅布)と正式に対面した。金側は北面拝礼などの儀礼を求め、欽宗はこれに従った。青城にのみ大雪が降るという不思議な現象が記され、これを両軍が共に瑞祥として喜んだという逸話がある。
- 対面では賓主の礼が形だけ整えられ、酒宴が催された。尼堪は「城を出た者は不忠不孝の徒として既に誅殺した」「天は必ずしも趙氏を望んでおらず、黄河を境として宋に金の正朔を用いさせる」などと発言。欽宗は金銀・縑帛・玉帯を献上したが、尼堪は「城が落ちた以上すべて我らのものだ、臣下に分け与えるがよい」と傲然と応じた。
- 欽宗は日暮れて帰城。沿道の民衆は歓喜して迎え、欽宗は自ら涙を流し「宰相が朕父子を誤らせた」と嘆いたと伝わる。随従の金人もこの民心の篤さに驚嘆したという。兵馬大元帥府の属官(耿延禧・高世則ら参議官、張慤・黄潜善ら運使、陳淬ら統制官)の人事も記される。
三日 太上皇への挨拶、百官の金軍への謝礼
- 欽宗は龍徳宮・寧徳宮に赴き太上皇・皇后を見舞った。何㮚は当初割地反対を唱えていたが、陥落後は一転して和議を歓迎し、平然と酒宴に興じたことが「朝野僉言」に「主辱臣死の時に恥じる色もない」と厳しく批判される。
- 文武百官・僧道・父老が金軍陣中へ謝意を表しに赴いたが、金側は「わざわざ来るに及ばず、経を読み金国皇帝の長寿を祝えばよい」と応じ、表向きは丁重な態度を示した。
- 金は康王の召還を求める書を送った。「泣血録」によれば「既往は問わぬゆえ、康王を一人使者に付けて呼び戻されたい」との内容であった。朝廷は曹輔を使者に立てることとし、蠟書(礬水で衣服の襟に隠し書きする方式)で康王に「勤王軍を軽々しく動かさず近郊に留めよ」との指示を送った。侯章による蠟書催促も記される。
四日 金軍による府庫の接収、諸州への勤王檄
- 金は府庫・文書の検分のため使者を派遣。太祖以来百七十年にわたり蓄積された内蔵庫(封椿庫)の財貨が接収の対象となり、真宗御製の詩(庫の各字を庫名に用いたもの)の由来も紹介される。金は数日かけて財貨を運び出した。
- 大元帥府(康王)は諸州に勤王の檄を発し、精鋭の団結と兵糧の輸送体制を細かく指示、十二月十四日に相州を発ち大名府に向かう予定を通達した。多くの知州にこの檄が発せられたが、中山府・慶源府は包囲されて連絡が届かなかった。
- 相州近郊で横行していた盗賊楊青(衆二万)・常景(衆四千)が招安に応じ、康王に帰順した。康王は儀衛も設けず親しく迎え杯を賜り、これを見た者は「将を将たらしめる度量」と評したという。