二十六日 陥落後の混乱、和議唱道による小康
- 金軍は四壁を占拠し、城内の樹木・棺板まで用いて攻城設備を補強した。当初は屠城・放火の恐れがあったが、何㮚が「百姓を率いて巷戦も辞さぬ」と示したためか、金は殺掠を控え和議を唱え、人心はやや落ち着いた。太上皇・鄭皇后は延福宮に留まった。
- 景王・謝克家が金軍陣中へ「請命使」として遣わされ、金は「全生霊のため」を掲げつつ強い態度を示した。中書舎人孫覿は待制辞退の上奏文で、この夜の混乱(大雪の中、参内する官吏の困難、乱兵による延和殿破壊・略奪・宦官殺害など)を生々しく記す。欽宗は剣を手に「敵が城壁を越えれば卿らとともにここで死す」と述べたという。
- 劉延慶・その子光国が万勝門を破って脱出し、数万の軍民がこれに従った。史料間で脱出の日付に異同があり、編者はその考証(丙辰夜説と丁巳説)を付す。
二十七日 欽宗、宣徳門で軍民に諭す。景王の帰還と何㮚の使者行
- 京師四壁の連絡が絶え、南壁陥落を知らぬまま北壁などがなお守られていた状況が記される。
- 欽宗は宣徳門に立ち、混乱する軍民に「事ここに至った、罪は問わぬゆえ武器を持って身を守れ」と諭した。市井の徒王倫が功を求めて群衆を鎮めようとし、吏部侍郎に取り立てられた逸話が記される。
- 景王・謝克家が金軍陣中から帰還し、金が「城内に対する殺掠禁令は既に出している」と伝えた。李若水は金の命で入城し、景王に代わって欽宗への報告を行った。
- 何㮚が金軍陣中へ赴き尼堪と対面。「宋を戦に導いたのは汝か」と問われ弁明に窮しつつも、「洗城(皆殺し)より仁徳による統治こそ元帥の万世の恩」と説き、尼堪は「南北の分立はやむを得ぬ、望みは割地のみ」と応じた。「靖康遺録」には何㮚が恐懼して出立を渋る様子や、李若水の叱責も記される。
二十八日 講和交渉の進展、康王への蠟書
- 大雪の中、欽宗は再び宣徳門に立ち軍民の万歳と号泣に応えた。金使は「両国既に和す」と伝え、榜文で布告された。
- 「宣和録」「泣血録」には、市中での掠奪・放火の様子(民家・神衛営などの焼失、金兵が銭を投げ与える逸話)、太学での掠奪と「秀才らは忠孝を尽くせ、殺さぬ」との金側の発言が記される。
- 武学進士秦仔らが蠟書を携え、康王を兵馬大元帥、陳亨伯を兵馬元帥、宗澤・汪伯彦を副元帥に任じる勅命を届けた。詔は覆いの布を裂いて隠した蠟弾で伝えられ、康王は文を読んで涕した。何㮚は再び軍前に赴き、上皇の出郊免除を尼堪に認めさせた。
二十九日 血のように赤い日輪、朱雀門開放
- 雪が止んだ朝、太陽が血のように赤く見え、人々は「殺戮の兆し」と恐れた。朱雀門が開かれ、金軍は攻城具を撤去し始めた一方、城内の乱兵による掠奪・婦女拉致は続いた(高氏の邸で婦女七十余人が連れ去られた例など)。金の陣中では殺人が禁じられていたため、掠奪の多くは実は宋側の無頼の徒によるものであったとされる。
三十日 欽宗、金軍の陣(青城)へ行幸
- 金が「上皇の出郊」を求め続けたため、欽宗自ら金の陣営(青城)へ赴くこととなった。曹輔・張叔夜が留守を守った。欽宗の行列は南薫門で長時間待たされた末に城外へ出、青城の斎宮に宿泊した。民衆は金銀財帛を捧げて沿道に集まり、車駕の帰りを待った。
- この日、劉定が蠟書を大元帥府(康王)に届け、京師の危急を伝えた。先に着いた秦仔の報告(まだ落城していないとの見立て)と食い違いがあり、両説の照合が行われたことが記される。