三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

郭京の出撃失敗と京師陥落(閏十一月二十五日)

  • 大雪の中、金軍は対楼を増やして攻撃を強め、前夜の戦闘では城下で金兵三千余を討ち取ったが、城方も三百余の死傷を出した。守備兵は死屍を見て怯懦の色を示し始めていた。
  • 城の守備は寄せ集めの禁卒や保甲が中心で、指揮系統も乱れがちであった。王瓊・姚友仲は策応の精鋭を統率していたが、恩賞の不履行への不満から兵の士気が低下し、各壁の防備(とくに「字」字楼)の修築が間に合わないまま金軍の攻撃を受けた。
  • 郭京は六甲の術を掲げ「天王旗」を立てて宣化門から出撃したが、これは全くの妄言で、出撃するや金の騎兵二百余に前軍を分断され、護龍河の吊橋が死屍で塞がれて退路を失い、多数が惨殺・溺死した。郭京は自ら戦わず兵を率いて南へ遁走し、宣化門は開いたまま金兵の突入を許した。
  • 城内では「郭京は敵に通じていた」「城門を開け渡した」などの流言が飛び交い、統制官への疑心から守備兵が次々と持ち場を放棄。乱兵による略奪・殺傷も相次ぎ、統制官姚友仲や多数の将校が殺害された。呉革は最後まで兵を率いて抗戦したが、日暮れには支えきれず潰えた。
  • 金軍は諸楼閣や陳州門・東水門に放火し、火光が夜空を赤く染めた。折からの大雪(二十余日連続)の中、都城は陥落。欽宗は「种師道の献策(半渡撃)を用いなかったことが今日の禍を招いた」と慟哭して悔い、何㮚・孫傳は死を請うたが止められた。
  • 混乱の中、潰兵による掠奪、民の避難、幼児の遺棄などの惨状が記される。各壁の統制官の人事や、恩賞の不公平(実際に戦った者より縁故者が厚遇された弊)が、守備崩壊の一因として指摘される。

姚友仲の戦死

  • 「避兵夜話」によれば、城陥落の混乱の中、姚友仲は乱兵に捕らえられ惨殺され、遺骸は溝に棄てられた。三代にわたる忠孝の家に生まれ、守禦に昼夜尽力していたが、京師が長く太平に慣れ無頼の徒が多かったこと、先の辛康宗殺害を朝廷が不問に付したことなどが、軍紀崩壊の背景として指摘される。友仲が事前に提案していた巡検制度の強化策も朝廷に容れられていなかった。

何慶彦の戦死

  • 「靖康小雅」によれば、果州団練使何慶彦は陳州門東側の守備を統率し、金軍の猛攻(天橋・鵝車・雲梯・洞子・砲百余座)に耐えていたが、二十五日の総攻撃で城が破られると、他の将が次々と逃れる中、独り城上で戦い、討ち死にした。

内侍黄経臣の焼身

  • 「靖康小雅」によれば、保徳軍承宣使黄経臣は東壁の税務を督していたが、城が陥ちた夜、金軍が通津門下に放火する中、逃げずに闕を望んで慟哭し、火に身を投じて死んだ。他の宦官が保身に走る中、忠節を貫いた稀有な例として特筆される。

金の使者劉晏、殺害される

  • 「宣和録」によれば、斡里雅布が遣わした使者劉晏は繰り返し入城し和議を促していた。城の守りが不十分であることを見抜き、早期の講和(宰相・親王の出城)を勧めていたが、朝廷の対応は遅れた。閏十一月二十四日の再訪時、劉晏は「攻城が迫っている、早く宰相・親王を出すべき」と警告して退去したが、その夜のうちに京師が陥落。城内に取り残された劉晏は、暴徒化した軍民に「和議のために来たのに」と訴えるも殺害された。斡里雅布側にこれが伝わると、尼堪は「国破れ人乱るるは自然の理」と述べたという。