十七日 金使蕭慶、馮澥とともに入城
- 馮澥は三闗問題の交渉のため金軍に赴いたが、金は既に黄河を境とすることで話をまとめており三鎮問題は不要と告げた。金は蕭慶を遣わし欽宗の出城・会盟を求めたが、朝廷は応じず、宰執・親王の出城案も実行されなかった。
十八日 太学生丁特起の再上書、攻城技術の詳細
- 金軍の猛攻が続く中、太学生丁特起は和戦いずれかの早期決断を求める上書をしたが黙殺された。張叔夜も枢密の職を辞し南道総管専任を願ったが認められなかった。
- 金軍の攻城戦術(東拐子城への砲撃、雲梯・鵝車・洞子・撞竿・鈎竿などの攻城具、火箭・火砲による応戦)が詳述される。姚友仲は円門・虚棚などの防御工作を工夫し、通津門拐子城などで金軍の攻城具数十座を破壊する戦果を挙げた。石茂良「避兵夜話」や丁特起「泣血録」にも同様の攻城具の記録がある。
- 金軍は東水門を攻め、城方は撞竿で梯を折るなどして応戦、双方に死傷が出た。斡里雅布は再度使者を送り、河北・河東の全土割譲と大臣の派遣を要求し、応じねば和議は成らぬと圧力をかけた。
十九日 曹輔・馮澥・宗室士㒺、金軍への使者に
- 知枢密院曹輔・尚書左丞馮澥・宗室節度使士㒺が金軍陣中への使者に立てられた。「宣和録」によれば、金使蕭慶らは「三鎮の民が従わなかったため黄河を境とすることに変えた」「皇帝自ら城を出て会盟せよ、さもなくば囲みは解かない」と繰り返し要求。朝廷は皇太子・親王を人質に出すことを渋り、代わりに何㮚の派遣を拒み、曹輔・馮澥を派遣する妥協案で応じた。
- 宗室士㒺が親王の代理として出頭したが、皇帝と連名しない不審から金側に「偽の親王」と見抜かれ、尼堪の怒りを買い攻城が一層激化した。何㮚は主戦論に固執しつつも実効ある策を欠き、酒宴に興じる様子が批判的に記される。
二十日 宣化門の攻防、蠟書による勤王要請
- 金軍が宣化門を強襲、城方の反撃は一時後退を強いられ、多数の死者を出した。武学進士秦仔らが蠟書を携え諸路に急を告げ、康王を兵馬大元帥、陳亨伯を兵馬元帥、宗澤・汪伯彦を副元帥とする勤王体制を布告。范致虚を五路宣撫使、翁彦国を五路経制使として勤王軍の統率を命じた。破格の恩賞を約す詔も重ねて発せられた。
二十一日 大雪と彗星
- 三尺に及ぶ大雪が降り続き、この夜彗星が現れ太微垣に白気が生じたと記される。
二十二日 田灝、砲撃で死去
- 田灝が砲撃を受けて即死し、五官を進め待制を追贈された。
二十三日 范瓊、氷上の戦いで敗北
- 范瓊は宣化門から出撃し当初優勢であったが、氷上で深追いした兵が氷の割れ目に落ち五百余人が溺死する惨事となり、士気が大きく損なわれた。金軍は護龍河を埋め立てて対楼(攻城櫓)を進め、通津門・宣化門への攻撃を強めた。城方は撞竿で対楼を倒し火を放つなどして応戦したが、金軍の攻勢は衰えなかった。