七日 欽宗、种師道邸に弔問
孫覿、三鎮放棄を上奏
- 中書舎人孫覿は上殿の劄子で、金使王芮が「三闗を得られねば大軍で京師を包囲する」と脅した経緯を述べ、宰相唐恪が欽宗の問いに三度同じ答えを繰り返すのみで決断しないことを批判した。
- 戦国時代、秦が韓魏の攻勢を受け河東を割いて講和した故事(公子池の「割いても悔い、割かずとも悔いる。ならば小を失う方がよい」との言)を引き、三鎮も同様に割くべきと論じた。京師の防備が黄河一本に頼る危うさを指摘し、朝廷の速断を求めた。
- 併せて先に上奏した二つの劄子の内容も記される。一つは、太学生の伏闕騒動と李綱の刼寨失敗を批判する内容で、李綱を「書生にして兵を知らず」、陳東ら太学生を「妄りに朝廷を誣いる」と断じ、厳罰を求めるもの。もう一つは和議推進論で、西夏元昊への対応(吳育の持久策)や澶淵の役での真宗の寛容な講和を先例に引き、金との和議こそ上策であると説く。
三鎮存廃をめぐる百官会議の詔
- 朝廷は三鎮(太原・中山・河間)の割譲の可否を文武百官に議させる詔を下した。「衮冕車輅・名号すら惜しまず与えてきたが、金は三鎮まで求める」とし、割く場合・割かない場合双方の利害を問い、衆議に従うとした。
- 建議大夫范宗尹らは割地に賛成、何㮚ら少数は反対を唱えた。反対派は「河北は天下の四支、失えば人たり得ぬ」「天下は太祖太宗の天下であり石敬瑭の故事に倣うべきでない」と論じた。
八日 延英殿での百官議
- 延英殿で百官が三鎮問題を議した。范宗尹は割譲に賛成し流涕して訴えたが、梅執禮・孫傳・呂好問・洪芻・秦檜・陳国材ら三十六人のみが反対を貫いた。
- 孫覿の劄子は「毒を受けた手足は切るべき」との比喩で割地を主張しつつ、紹聖年間に棄地を主張した元祐の臣が後に厳罰を受けた前例を挙げ、割地の是非をめぐる政争の危うさにも言及した。
- 金使は十五日までの割地承諾を求めており、何㮚は「割けば河外の民心を失い、割かねば太原・真定は既に陥ちている」と板挟みを指摘。結局朝廷は衆議により割地に傾き、康王を再度和議の使者として遣わすこととした。
- 大学博士万俟卨・監察御史晁公之ら八人は割地に反対し、唐恪に「三鎮は祖宗の地であり、金の狙いは中原全体にある」と説いたが容れられず、四道二十万の兵を召して防衛する策を献じたものの、朝廷は結局土地の放棄に傾いた。
翼城県の陥落
- 羅索の軍が翼城県を陥とした。知県向淙は城を捨てて曹公山に逃れ、住民が城を金軍に明け渡した。