十一月一日 懐徳軍陥落、劉銓・杜翊世の死節
- 十一月一日壬戌朔、夏国軍が懐徳軍を陥とし、守将の劉銓・通判杜翊世が死んだ。先月、夏軍は地道を掘って城壁を破ろうとしたが翊世が撃退。今回は再度の攻撃で城内に穴を穿たれ、翊世は疲兵で応戦したが力尽き、みずから物資を焼き払って敵に渡さぬようにした。翊世は降伏を拒み火中に身を投じて死んだ。建炎元年、その功により贈官と居所の忠坊の名を賜った。
- 「劉懐徳死節録」によれば、劉銓は瓦平寨の正将から懐徳軍知事に抜擢され、赴任後は昼夜城を修め、士卒の心を得た。夏軍二十余万に囲まれるも巧みに攻具を破り、寒中に城壁に氷を張らせるなど工夫を凝らして持久した。降伏を勧める属吏張庭珪を斬り士気を保ったが、援軍が絶え、矢石も尽きて陥落。捕らえられても屈せず罵倒し、殺された。城陥落は十一月十五日のこととする。
- 曲端の言(「劉子平がいれば端はこの地位にいられなかった」)を引き、唐文若がその忠節を讃える跋を付す。
李若水の金軍陣中よりの帰還
- 三鎮の租賦を代償に和議を求めるため金山西軍前に遣わされた李若水は、榆次に至った時点で太原・真定が既に陥落していたため、租賦での贖いが叶わず帰朝した。金軍は澤州も陥とし、守将高世由は降伏した。
五日 王雲の帰還と金主徽号をめぐる論議
- 王雲が斡里雅布の陣から帰還し、相州で知州汪伯彦に金軍の不穏な情勢を伝え、防備を勧めた。宗澤はこれを「金勢を誇張して国を売る言」と疑い、朝廷に取り合わぬよう上奏した。
- 王雲は斡里雅布が冕輅・徽号などの朝儀の象徴を要求していることを報告、朝廷は太常礼官に金主への徽号を議させた。詔書は、器物や名号を敵に与えることの危険性を荘子の比喩などを引いて論じ、王莽への璽の授与を例に安易な妥協を戒める内容であった。
- 呉革は陝西へ遣わされ、金の「呑箭の誓い」(必ず攻め入るとの決意)を理由に、和議を頼らず武備を固めるべきと説いた。
六日 懐州陥落、霍安国以下の死節
- 尼堪の軍が郭山・城の二手に分かれ懐州に迫り、これを陥落させた。知州霍安国・通判林淵・鈐轄張彭年・都監趙士諤ら多数が同時に殺害された。
- 「范仲熊北記」によれば、霍安国は事前に城の防備を整えていたが、朝廷の使者(童貫・范訥・宇文虚中・王雲ら)が相次いで通過するのみで実質的な援軍はなかった。金の先鋒羅索貝勒が至り、降伏を求める交渉が繰り返された。范仲熊が交渉役となり、金将尼堪との間で「三闗四鎮を金に割譲し歳幣を増す」案なども話し合われたが、朝廷からの回報が遅れ、金軍は攻撃を再開。
- 攻城戦では雲梯・鵞車(装甲攻城具)・投石機などが用いられ、城方も火砲・熱湯・金汁で応戦したが、大雪の夜に西北隅が陥落。霍安国・范仲熊ら守将は最後まで降伏を拒み、多くが殺された。范仲熊は尼堪の陣に捕らえられたが、監軍烏舍の温情で助命され、後に韓信・劉表・孫策の用兵論を問われて答え、烏舍に評価されたという逸話が付される。烏舍と尼堪の権勢関係(烏舍が兵事を専断し、尼堪と二太子は不和)についても記される。