三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

种師道の卒去(十月二十九日)

  • 太尉・鎮洮軍節度使・同知枢密院事の种師道が没した。師道は同知枢密院事として辺境を巡視中、懐州で病を得て、金軍が再来すれば必ず大挙して攻め寄せると上奏し、長安への行幸を進言していた。守禦・攻戦の任は将帥に委ねるべきとも述べた。朝廷は師道を召還して協議させようとしたが、道中で死去した。

靖康小雅にみる種師道評

  • 「靖康小雅」によれば、師道は名将の家系に生まれ、燕山の役では都統制を務めたが童貫の指図に従わず罷免され、劉延慶に代わられた。金軍の二太子が汴京に迫った際は同知枢密院事となり、金軍に城壁近くまで誘い込んで殲滅する策を献じ、宰執もこれを容れた。
  • 勤王の兵が集まると、師道は兵を上等・下等に分けて出撃・守城を分担させ、姚古の西軍を後方に配して挟撃する策を立てたが、李綱が姚平仲の夜襲策を先に用いて失敗。師道は再度の奇襲策を献じたが用いられず、金軍は退いた。
  • のち宣撫使として滑州・河陽に駐屯を命じられたが、老病の身で赴任途上に卒した。世人は師道の識見を惜しみ、李綱が策を用いなかったことを恨んだという。

封氏記年:贈官と諡号の経緯

  • 種師道の死後、甥の种湘(叙州知事)が伯父の功績を上奏し、褒賞を求めた。朝廷は太常寺に諡を定めさせ「忠憲」と諡した。「国家に篤きを慮るを忠と曰い、文武の法とすべきを憲と曰う」との諡法による。
  • 建炎元年(1127年)、朝廷は改めて少保を贈る勅命を下した。告詞では、師道が燕山の役で権臣に忤らい、靖康の初めに善策を献じながら和議に阻まれ、恨みを飲んで没したことを惜しみ、猶子(甥)の願いにより恩典を加えるとした。

折彦質撰・種師道行状

  • 師道、字は彞叔。河南の人。曽祖父以来武功の家系で、伯父の縁で任官し西夏との戦で功を挙げた。同谷県の訟事を速やかに裁いて民心を得るなど、地方官として実績を重ねた。
  • 涇原路で章楶に用いられ西夏との戦で功を挙げたが、役法をめぐり曽布・蔡京に忤らい、姦党に連座して十年近く不遇をかこった。政和年間には西夏との境界交渉で毅然と応対し、夏国側から敬意を得た。
  • 童貫の意向で辺境の弓箭手を新辺に転用する策に反対して直言し、徽宗に信任された。以後涇原路の要職を歴任し、臧底城攻略などで戦功を挙げ侍衛親軍副指揮使に進んだが、靖夏城失陥で降格されたこともあった。
  • 宣和年間、童貫の燕山遠征に従軍したが、無名の師を興すことに反対し、和詵らと対立。密かに弾劾されて右衛将軍に落とされた。劉延慶の敗戦後、劉延慶に代わって環州知事などを歴任。
  • 金人が盟約を破ると陝西漕臣王庶らの推挙で再び起用され、京畿河北路制置使として姚平仲の兵を率い援軍に向かった。金軍が城下に迫る中、寡兵のまま進撃して敵の疑心を誘う奇策を用い、京師の士気を回復させた。
  • 欽宗に謁見して和議への疑念を述べ、同知枢密院事に任じられた。金幣供与の緩和や游兵の掠奪阻止などを進言したが、姚平仲が功を焦って夜襲(刼寨)を独断で企て失敗。師道は敗戦後も再撃を主張したが用いられず、和議派に押されて宣撫使を罷免された。
  • のち种師中・姚古が相次いで戦没すると再び召還され宣撫使に任じられたが実権を伴わず、まもなく罷免。金軍再侵の兆しに長安行幸を進言するも容れられず、河陽への赴任途上、靖康元年十月二十九日に病没した。享年七十六。欽宗は哭して五日間朝を廃し、開府儀同三司を追贈、建炎の代替わり後に太保を加贈、諡は忠憲とされた。
  • 行状は師道の人物を「色荘か気壮、寡言にして許可を慎み、量度濶遠」と評し、張載に学んで実務に通じ、州県・監司・将帥いずれの任でも人望を得たと称える。晩年は朝廷が久しく兵事に疎かったため、その謀略が疑われ用いられなかったことを惜しむ。姚平仲の刼寨失敗後も動じなかった態度、治民における謹厳さなどの逸話も付す。

孫覿撰・贈開府儀同三司告詞

  • 中書舎人孫覿による贈官の告詞。趙充国・廉頗の故事を引き、种師道の剛明・善謀を称え、その識見が用いられなかったことを惜しみ、遺忠に爵命と栄誉を追贈する旨を述べる。