二十四日丙辰 平陽府陥落
- 尼堪の軍が平陽府を陥落させた。知府経略使林積仁と都統制劉鋭は城を捨てて逃走した。
- 宣和録によれば、義勝軍の劉嗣初がかねて金に内通しており、太原陥落後に平陽の防備情報を金へ流していた。汾州・回牛嶺の防衛線も兵糧不足と守備兵の少なさから次々に崩れ、十月十四日には劉鋭も戦わずして退却し、平陽は無防備のまま陥落した。
- 逄敵記は、著者自らが平陽での防備強化を試みた顛末を詳述する。知府林積仁は「焼け落ちた城楼もなく兵糧も器具もなく守れない」と当初から抗戦を諦めており、著者は住民を動員して守備を試みたが、経略使自身が城を捨てて逃げ出し、統制・都監らも次々と逃亡、最後は住民もろとも開城・投降するに至った。
二十六日戊午 侍御史胡舜陟、中山救援を求める上言
- 胡舜陟は、真定陥落の惨状を伝える急使の訴えに朝廷が援軍を送らなかったことを痛惜し、和議を口実に宣撫司が中山救援を怠れば河北全体が崩壊し、ひいては京師の防衛も立ち行かなくなると警告した。河北の民を挙げて義勇軍とし、爵位で報いる形で兵力を確保すべきと提言した。
絳州で兵乱、守臣ら逃走
- 河東逢敵記・遺史は、絳州で敗残兵と地元の軍が暴発して放火・略奪に及び、知州李弼傳らが逃走したこと、四川からの上納物資や漕運の金銀・絹帛など多額の官物が略奪された惨状を記す。
二十八日庚申 黄鍔、海路より金国へ使者に、尼堪は澤州へ
- 給事中黄鍔が海路から金国へ和議の礼物を届けるため派遣された。同日、尼堪の軍は澤州城下に迫った。
二十九日辛酉 胡舜陟、政治の刷新を求める上言
- 胡舜陟は、王安石以来の開辺策や王黼・童貫による対金外交の失策が今日の禍の根本にあるとし、祖宗の寛大な政治が失われ、士風の退廃・賞罰の乱れ・宦官の専横・不当な人事・不公平な税制が改まっていないことを指摘した。これら政治の乱れを正すことこそ天の怒りを解く道であるとして、三省に是正を求め、詔をもって施行された。