三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

十七日己酉 皇帝、飛山営で大砲を検分

  • 皇帝は郊外の飛山営で砲の試射を視察したが、事故で死者が出て不興となった。遺史は、五百余座の大砲が管轄をめぐる役所間のなすりつけ合いで城外に放置され続け、結局そのまま金軍の攻城兵器として利用される羽目になった顛末を伝える。靖康小録は、真定陥落の報にも唐恪・聶昌・耿南仲らが事実を隠蔽していたと批判する。

龍徳府、再び陥落

  • 尼堪は龍徳府に迫り、通判李諤が交渉に出たが、犒軍物資の提供をめぐる行き違いから住民の怒りを買い、李諤自身も味方に斬られる混乱の中で城は陥落、知府張有極は捕虜となった。

十八日庚戌 范訥、河北河東宣撫使に任命

  • 范訥は検校少保・寧武軍節度使として河北河東路宣撫使に任じられた。制詞はその剛毅な人柄と辺境統治の経験を称える。

麟州建寧寨陥落、楊震死す

  • 金軍が麟州建寧寨を攻め、知寨楊震は少数の老弱兵で十日余り持ちこたえたが、矢が尽きて陥落し、楊震は戦死した。

河北・河東の便宜行事を認める詔

  • 皇帝は、金軍の攻勢が続く中、河北・河東の帥臣・地方官に対し、状況に応じて自らの判断で連携・救援を行うことを認め、功のあった者には爵位や世襲の統治権を与えると約束する詔を下した。

河北・河東への清野(焦土戦術)の詔

  • 皇帝は、和議のため金帛を惜しまず費やしてきたにもかかわらず金の侵攻が続くことを嘆き、河北・河東・京畿一帯に清野(民を撤退させ物資を焼却する戦術)を命じ、義兵を組織して戦った者には軍功に応じた恩賞を与えるとした。

諸路勤王軍の督促と軍法の適用

  • 臣僚は、前年冬の勤王不参加は情状酌量されたが、今年は事前に危機が予見されていたのだから、勤王に遅れる州郡の長官は事後に軍法で処断すべきと上言し、容れられた。

十八日庚戌 人材登用を求める詔

  • 皇帝は、かつて蔡京・王黼・童貫らに推挙されたというだけの理由で人材を排除しないよう命じる詔を下した。

金、楊天吉・王芮を遣わし詰問の書を送る

  • 尼堪らは、宋が契丹の残党(梁王・耶律余部)や金軍内の裏切り分子(耶律の将)に密書を送り金への反乱を扇動しようとした証拠(王雲一行が携えていた蜜書、趙輪が持ち帰った書簡など)を摘発し、盟約違反を厳しく詰問する書を送った。皇子・副元帥は、上皇への謝罪と三鎮の即時開城を求め、応じなければ再度京師へ進軍すると通告した。
  • 経緯として、朝廷は密かに契丹の遺臣に呼びかけ金への反乱を促す書簡を送っていたが、使者の裏切りにより内容が金側に漏れ、逆に強い反発を招いていた。また、金の使者蕭慶を都亭駅に軟禁した一件も、呉敏らが懐柔策に転じて厚遇し、契丹残党との共闘を持ちかけたが、この書簡もまた金軍に押収され、かえって金の怒りを買う結果となった。

王雲、金軍陣営へ赴くも交渉決裂

  • 朝廷は工部侍郎王雲を使者とし、三鎮の租税を歳幣に上乗せする代替案を提示したが、斡里雅布は激怒し、二十日以内に土地を割譲しなければ再び京師へ進軍すると通告した。王芮も朝廷に対し、三鎮割譲に加え契丹の後継擁立を疑う姿勢を示すなど、態度は極めて強硬であった。