三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

二日甲午 王雲、真定府で金軍の包囲を目撃

  • 和議使王雲が真定府に至ると、すでに斡里雅布の軍がこれを包囲しており、攻城の様子を見せられた。

三日乙未 种師道、病により召還

  • 种師道は河北巡辺使・河東宣撫使に任じられたが、赴任前に鄭州で重病となり、朝廷は急ぎ京師へ召還して治療にあたらせた。

五日丁酉 夏軍の侵攻を撃退

  • 西夏軍が懐徳軍に侵攻したが、通判杜翊世が知軍劉銓とともに火牛・投石機などで防戦し、多数の死傷者を出させて撃退した。

六日戊戌 真定府陥落、李邈・劉翊死す

  • 斡里雅布の軍が真定府を陥落させた。安撫使李邈は事変への対応を誤り、援軍要請も届かぬまま数日で城を落とされ捕らえられた。李邈は金への服従を拒み続け、最終的に処刑された。兵馬都鈐轄劉翊は市街戦の末、自刃した。
  • 趙子砥『燕雲録』・節要・靖康小雅などは、李邈が斡里雅布の前でも節を屈せず、燕京の偽宰相劉彦宗の懐柔・脅迫にも応じずに刑死した経緯、劉翊が奮戦の末に自刃した壮絶な最期を詳述する。

尼堪・斡里雅布、平定軍で再侵攻を協議

  • 節要によれば、両将は太原・真定を得た勢いに乗じてまず両河を固めるべきか、直ちに東京(開封)を攻めるべきかで議論し、尼堪の強い主張により東京への再侵攻を決定、両軍は本拠に戻ってのち東京で合流することとした。

馬擴、真定の獄を脱し義兵を結集

  • 劉韐に謀反の疑いをかけられ投獄されていた馬擴は、真定陥落の混乱に乗じて脱獄し、西山の山寨に潜んで両河の義兵を結集した。

李若水、河東・河北救援を求める上疏

  • 李若水は、金軍占領下を千余里にわたり視察した惨状(村落の焼失、住民の窮乏、義兵による抵抗の様子)を報告し、河東・河北の民が朝廷への忠義を失っていないことを訴え、救援策を講じるよう求めた。

十日壬寅 龍徳宮での祝賀に見える両宮の不和

  • 天寧節に皇帝が龍徳宮に太上皇の長寿を祝いに赴いたが、大臣の制止により杯を交わさず退出し、太上皇は号泣して宮中に入った。翌日、両宮の言葉を伝え歩く者を密告すれば懸賞するとの布告が出され、以後両宮の意思疎通は絶えたと伝えられる。

汾州陥落、張克戬の殉節

  • 金将羅索は汾州の知州張克戬に降伏を促したが拒絶され、攻城の末に陥落させた。張克戬は朝服を整えて宮城を望拝し、味方の裏切りにより守りきれなかったことを詫びて自ら首をくくって死んだ。

陶宣、河東での崩壊を記録

  • 陶宣『河東逢敵記』は、張灝配下の軍が糧食・恩賞の不足で士気を失い、郭柵・文水の敗戦で数万の兵と物資を失った経緯、負傷者への手当も行き届かず統制官らが酒宴にふける荒廃した軍紀、汾州・隰州一帯の民が総崩れとなって逃げ惑う様子を、自らの目撃談として詳細に記す。

金軍、太原・真定に守備兵を残し南下続行

  • 尼堪は太原に守備隊を残して太行山を越え孟州から渡河を図り、斡里雅布も真定に守備隊を残して黎陽から渡河を図った。尼堪は再び威勝軍を攻め、和議使吴革は帰京した。