三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

李綱、落職の上旧来の宮観職に

  • 臣僚は、太原解囲を任された李綱の幕府運営が杜撰であったと批判した。属官を七、八十人も抜擢しながら実際に頼りにしたのは鄒柄・張牧の二人のみで、諸将は意思疎通を欠いたまま敗走したこと、李綱自身は懐州にとどまり戦線から数百里も離れていたため、太原陥落を数日後まで知らなかったことなどが指摘された。李綱は落職の上、杭州洞霄宮提挙に留められ、側近の鄒柄・張牧は罷免された。

李綱の罪をさらに列挙する上言

  • 別の臣僚は、李綱が内禅の功を呉敏とともに誇称したこと、民からの金銀徴収撤回を自らの功として演出したこと、親征の詔をめぐる混乱で自身の功を誇大に語ったこと、姚平仲の夜襲策を主導し和議の好機を逃したこと、蔡京・蔡攸を庇い密かに通じていたこと、伏闕事件の扇動に関与したことなどを重ねて弾劾し、正式な処罰を天下に布告するよう求めた。

李綱、保静軍節度副使として建昌軍安置、さらに寧江軍安置に

  • 度重なる弾劾を受け、李綱は保静軍節度副使・建昌軍安置に処された。李綱は弁明の上書を提出したが認められず、さらに寧江軍安置へと処分が重ねられた。

許翰、落職の上宮祠に

  • 臣僚は、种師中の敗死は同知樞密院事許翰が性急に督戦を強いた結果であるとし、許翰がかつて蔡京の門下であったこと、蔡氏の縁者を要職に推挙したことなども併せて弾劾し、許翰は落職の上宮祠に処された。林泉野記は許翰の経歴(蔡京・童貫・蔡攸の弾劾を主導した一方、太原解囲の督戦に失敗した経緯)を補足する。

金人、王芮を遣わし三鎮の地を要求

  • 太原陥落を受け、金の副元帥斡里雅布は使者王芮を派遣し、改めて三鎮全域の割譲を要求した。耿南仲はこれに同調し、朝廷は河間・中山の二鎮を金帛で贖う方針で交渉を進めることとし、王及之を国信使として派遣した。

蔡攸、自尽を命じられる

  • 中興姓氏姦邪録・国史後補は、蔡攸が幼少より宮中に出入りし内侍同然に振る舞い、父蔡京の失脚後もその権勢を利用して私党を広げたこと、燕山攻略での無為無策、太上皇南幸への随行と危急の奏報の隠蔽などを詳述する。臣僚の重ねての弾劾により、蔡攸は最終的に自尽を賜った(享年五十)。

二十一日甲申 童貫の首級を開封府に晒す

  • 監察御史張徴は童貫の首級を無事に護送し終えた旨を復命した。朝廷はこれまでの弾劾章と童貫の「十の大罪」(朱勔の登用、燕雲攻略の失策、東宮擁立時の不忠な言動、防衛放棄など)を改めて列挙し、開封府の市中に大書して晒すよう命じ、天下に布告した。

尼堪、平定軍を陥落

  • 太原・汾晋の諸州を制圧した尼堪は東進して夀陽を攻めたが、小城ながら民が死守したため三度の攻撃でも落とせず、死傷者一万に及んだ。続いて平定軍を攻め、井陘方面を巡る激戦の末、双方数千の犠牲を出しつつこれを陥落させた。

都城防衛のため四道総管を設置

  • 朝廷は、たびたびの敗戦で金軍の南下を食い止められない現状を踏まえ、都城防衛のため東・西・南・北の四道総管を新設した。東道総管は京東・淮南の兵を、西道総管は京西の兵を、南道総管は京西南・湖北の兵を、北道総管は河北の兵をそれぞれ統括し、折彦質を宣撫判官、李回を太尉・守禦使として都城防衛の体制を固めた。