秀水閒居録が回顧する蔡京の生涯と弾劾の記録
- 秀水閒居録は、蔡京が四度にわたり宰相に就任した経緯(崇寧・大観・政和・宣和の各期)、晩年は視力を失い歩行も困難になりながら私邸で政務を執り、子の蔡絛が代筆・代奏して恣意的な人事・賞罰を行い、宣和庫を設けて天下の貢物を私物化した実態を記す。金軍侵攻の前年にはその専横が露見して罷免されたが、時すでに遅く、その冬に金軍が都城に迫ったとする。
- 大観年間、御史中丞張克公が上疏し、蔡京の威権濫用・爵禄の私物化・興化の水利や臨平の塔などの讖言がらみの事業・妖言による人心惑乱を弾劾したが、当時は罷免に留まった(この時の責官詞は翰林張閣が起草)。
- 陳朝老は、即位当初の期待に反し蔡京が恣意的な改革で天下を混乱させたとし、その罪を「凟上帝・㒺君父・結奥援・輕爵禄・廣費用・變法度・妄制作・喜導諛・鉗臺諌・熾親黨・長奔競・崇釋老・窮土木・矜逺畧」の十四項目に整理して弾劾した。
- 右正言崔鶠は重ねて劄子を上奏し、蔡京の姦計を王莽になぞらえ、朋党の広がりは王莽以上であるとして、断固たる処刑を求めた。
二十六日庚寅 太原解囲を督促する詔
- 皇帝は、太原包囲が百五十日を超え、兵糧の手当てが不十分なまま督戦するのみで実効ある策を講じてこなかった朝廷の対応を自省し、諸将に増兵・兵糧の確保・信賞必罰の徹底を命じる詔を下した。
二十七日辛卯 解潜ら太原救援に進軍するも各路で敗退
- 劉韐・王淵は平定軍・遼州路、解潜・折彦質は威勝軍路、張灝・折可求は汾州路からそれぞれ太原救援に向かったが、金将尼堪は南闗に多くの糧秣を積んで偽装退却の計を用い、解潜軍を誘い出して急襲、解潜軍は大敗した。張灝の軍も文水縣で油断を突かれ敗れた。
- 傳信録(李綱)は、各路の将が宣撫司の統制を離れて独自に御前へ直達する体制の問題を指摘し、指揮系統の不統一こそが各路の敗因であると論じ、諸軍を一路に集約すべきと上奏したが、その後朝廷の方針は変わってしまったと述べる。
御史中丞張徴、童貫を追い刑を執行させる勅
- 臣僚は、漢が董卓誅殺後に凉州の残党を赦さず反乱を招いた例、唐徳宗が涇原の変で朱泚を早期に処断しなかった失策を引き、童貫の罪は蔡京・王黼以上でありながら処罰が軽すぎることを批判した。
- 童貫が私兵「勝捷軍」を私的に養い恩を売っていたこと、太上皇南幸に際し過大な恩賞を与えて忠誠を買おうとしたこと、最近の張思政の反乱未遂事件などを挙げ、山東の反乱勢力が童貫の存在を頼みにする恐れがあるとして、早急な処刑を求める上言が相次いだ。朝廷はこれを容れ、童貫の十の大罪(朱勔の登用、趙良嗣の起用による契丹滅亡策、東宮擁立時の不忠な言動、防衛放棄など)を挙げて処刑を命じ、御史張徴を派遣して護送先で斬に処し、首級を京師に送らせた。子孫は吉陽軍に編管された。
二十九日癸巳 李邈、知真定府に
是月 金の元帥・皇子への和議書簡
- 朝廷は金の元帥・皇子にそれぞれ書を送り、三鎮の民が土地への愛着から抵抗を続け、割譲の実行が難航している事情を説明し、三鎮の租税を毎年の歳幣として金に納めることで和議を維持したいと申し入れた。
- 一方、尼堪は雲中路の民兵を大動員して太原攻略を続けた。
王安中、臨江軍へさらに流罪
- 臣僚は、王安中が燕山府知事在任中、金軍の脅威や辺境の窮乏を隠蔽して虚偽の祥瑞報告のみを行い、事態を悪化させた罪を重ねて弾劾し、王安中は臨江軍安置に処された。