三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

二十七日壬戌 李綱、宣撫の兵を率い出京

  • 遺史は、种師道が見送りながら「兵事は憂うべきものだ」と嘆じたと記す。
  • 傳信録によれば、李綱は河陽で祖宗の陵墓を望拝し、君子を進め小人を退け国家再興を図るべきと上奏する一方、唐恪・聶山を信任しすぎることへの懸念も伝えた。軍紀を厳しくして略奪を禁じ、車戦の新型兵器を考案・製造するなど防秋の備えを進めたが、朝廷が急遽起兵を取り止め兵を削減する決定を下したため、李綱は強く抗議する上疏を提出した。
  • 李綱は、河北・河東の危機的状況、太原・河間・中山への圧力継続、金の再侵攻の可能性を訴え、召集した兵をむやみに解散すれば朝廷への信を失い将来の号令に応じる者がいなくなると警告したが、上奏は聞き入れられなかった。

二十八日癸亥 姚古、節度副使に落とされ廣州安置

  • 御史中丞陳過庭は、姚古の「斬に値する七つの罪」を列挙した。童貫への賄賂による恩賞獲得、太原危急時の逗留・不進、种師中の敗死を招いた不応援、威勝軍からの独断逃亡による民の混乱、部下の功績の隠蔽、投降した敵将の扱いの不忠実さ、焦安節の煽動に乗じた敗走の責任転嫁などである。姚古は節度副使に落とされ廣州安置となった。

彗星の出現、金軍首脳の会合

  • 紫薇垣に彗星が現れ凶兆とされた。金軍西路(尼堪・烏舍・伊都)と東路(斡里雅布・達蘭・棟摩)の諸将は山後の草地で避暑がてら合議を行った。節要は、太原を包囲したまま金軍主力が北へ引き上げていたにもかかわらず、宋の援軍が集結しても包囲を解けなかった失策を批判する。

七月一日乙丑朔 太上皇への礼詣

十一日乙亥 蔡京、儋州へさらに流罪

  • 右正言程瑀は改めて蔡京の罪の重大さ(紹述の名を借りた専横、朋党の形成、宦官との結託、興化の水利・臨平の塔など讖言がらみの土木事業、朝廷を欺いた振る舞いなど)を訴え、蔡京は儋州安置に処された。

蔡攸、雷州へさらに流罪

  • 程瑀は重ねて蔡攸の罪(宮中での放埓、燕山の役での失態、太上皇南幸時の偽りの孝行アピールなど)を訴え、蔡攸は雷州安置に処された。

十三日丁丑 童貫、吉陽軍へ流罪

  • 臣僚の弾劾により、童貫は吉陽軍安置に処された。

二十一日乙酉 蔡京、潭州にて病死

  • 徳安府から潭州へ護送される途中、蔡京は炎暑の中で体調を崩し、崇教寺にて病没した。
  • 幼老春秋・中興姓氏姦邪録は、蔡京の生涯(王安石・章惇への追従、旧法党の弾圧、宦官との結託による権力掌握、四度の入相と復権、興化・臨平の讖言がらみの土木事業、張懐素の謀反事件のもみ消し、王黼・蔡攸による失脚工作、金軍侵攻時の一族での逃避行)を詳述し、天下の士民はその死をもって誅殺の代わりとせざるを得なかったことを恨んだと記す。