六月一日丙申 姚平仲への懸賞捕縛指揮を撤回
三日戊戌 种師道罷免、李綱を河北東路宣撫副使に
- 种師道は防秋の備えを進言したが容れられず宣撫使を罷免された。少宰呉敏・門下侍郎耿南仲ら和議派は、国力の弱さを理由に三鎮割譲を主張し、これに党する謝克家・孫覿ら七人が結束していたが、李綱は祖宗の地を割くべきでないと反対し、皇帝もこれを容れて太原再援を決めた。
- 呉敏・耿南仲は李綱を河東宣撫使に推薦し、御史らは李綱が書生で軍事の経験がないとして反対したが、太原安撫使張孝純からの急報もあり、朝廷は李綱を宣撫使に任じた。
- 傳信録によれば、李綱自身は固辞したものの許されず、裴度の故事を引いて君子・小人が並び立てぬ道理を説く劄子を提出、軍馬の不足や出征準備の遅れを訴えて出発を延期しようとしたが、最終的に六月二十五日の出陣となった。
五日庚子 蔡京・蔡攸を永久追放とする詔
- 臣僚は、蔡京がその執政二十年余りの間、朋党を作り私利を図り、三衛・四輔の設置や無用の土木事業で国費を浪費し、王安石への王爵追贈など私心による典礼改変を行い、何執中・余深ら腹心を用いて言路を塞ぎ、最終的に王黼の専横や金軍侵攻の遠因を作った経緯を詳細に列挙した。
- これにより、蔡京・蔡攸は永久に赦免しない旨の詔が下され、両名を推挙する者があれば処罰するとされた。
六日辛丑 流星の凶兆、諸将の人事
- 東南から西北へ流れる大流星が観測され、凶兆とされた。
- 劉韐が宣撫副使、解潜が姚古に代わる制置副使、折彦質が河東宣撫司幹當公事に任じられ、隆徳府・威勝軍方面での太原救援体制が再編された。真定府の精鋭がこの再編で西方へ動員され、真定の守りが手薄になったことが記される。
八日癸卯 張孝純・王禀への論功行賞
- 太原を守り抜いた河東路経略按撫使張孝純は武當軍節度使に、侍衛親軍馬副都指揮使王禀は建武軍節度使にそれぞれ進封され、食邑を加増された。制詞は両名の忠勇と籠城の功績を称える。
十五日庚戌 解潜以下将士への慰労の勅
- 皇帝は、太原救援のため血戦する解潜以下の将士を労い、金帛・戦袍を賜い、功に応じてさらなる恩賞を約束する勅を下した。
十六日辛亥 白時中・李邦彦、落職
- 臣僚は、前太宰の白時中・李邦彦が金軍侵攻時に無策であった罪(時中は襄陽への避難を、邦彦は三鎮割譲を主張したこと)を弾劾し、両名は落職に処された。
- 中興姓氏録は、李邦彦が宣和末より奢侈を極め諫言せず、靖康の変では和議を主導して虚勢を張り、太学生陳東らの伏闕上書で弾劾された経緯、瓦礫を投げつけられるほど民の怨嗟を買った様、种師道・姚古の追撃策を妨げて金軍を利した経緯などを詳述する。
十八日癸丑 蔡懋、落職の上分司居住
- 臣僚は、蔡懋が蔡攸に阿附して王黼を讒言し、金軍包囲時には無策であったにもかかわらず、大名府知事として奢侈に耽り軍民の怨みを買ったこと、さらに亡父蔡確の事績を偽って宣仁太后(哲宗の摂政)を誣告した罪を弾劾し、蔡懋は秘書少監に落とされ亳州居住を命じられた。
- 節要は、この頃金が西夏に割譲していた天德・雲内など河東の失地を奪い返した経緯を付記する。
河北の官に家族を先に逃がすことを禁じる御筆
- 朝廷は、河北・河東の地方官が私的に家族を先に避難させる風潮を戒め、今後は固守の義務を厳格に問う旨の勅を下した。
二十五日庚申 李綱に餞別の宴
- 出征する李綱のため、紫宸殿・瓊林苑で餞別の宴が催された。
二十六日辛酉 李綱、焦安節を斬る
- 宣撫使李綱は出征途上で軍を犒い、かつて姚古配下で虚偽の敵情報告により味方を混乱させ退却を煽った焦安節を捕らえ、処刑した。