三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

八月三日乙未 徐處仁・呉敏、宰相を罷免

  • 御史中丞李回の弾劾により、太宰徐處仁と少宰呉敏がともに罷免され、徐處仁は観文殿大學士・中太乙宮使、呉敏は観文殿大學士・醴泉觀使に転出した。両制詞は、艱難の時にありながら両者が意見の対立に終始し実効ある施策を打ち出せなかったことを婉曲に指摘する。
  • あわせて唐恪が少宰兼中書侍郎に任じられた。

徐處仁・呉敏、地方官へ転出

  • 臣僚は、両者を殷の傅説・周の仲甫・漢の魏相ら中興の名宰相と比較し、徐處仁は器量が凡庸で大局を見通せず、呉敏は蔡京の縁故で出世し権勢欲が強く、両者の不和により政務が停滞し朝令暮改が続いたことを厳しく批判した。これにより徐處仁は知東平府、呉敏は知揚州へ左遷された。
  • 靖康遺録は、徐處仁が北京留守から急遽召し出されたものの実際は無策であったこと、呉敏との論争中に筆を投げつけ相手の顔を汚した逸話、呉敏が軍務そっちのけで太学の経義論争にかまけていたため「不管太原却管太學」など「十不管」の風刺が流行したことを記す。林泉野記は徐處仁の経歴を補足する。

何㮚・陳過廷・聶昌、要職に任命

  • 何㮚が中書侍郎、陳過廷が尚書右丞、聶昌(旧名聶山、夢の吉兆により改名)が同知樞密院事にそれぞれ任じられた。

許翰罷免、李回簽書樞宻院事に

解潛、南闗で尼堪に敗れ隆徳府へ敗走

  • 解潛は南闗に陣を敷き背水の陣で決戦を試みたが、金軍の猛攻の前に軍令が乱れ、多数の兵が潰走・溝壑で死亡する大敗を喫した。知威勝軍張堯佐は金に降った。

劉韐は京師へ敗走、李綱は懐州で進軍を止める

  • 解潛の敗報を聞いた劉韐も京師へ逃げ帰り、当初勇んでいた李綱も意気消沈して懐州に留まり進軍しなかった。遺史はこの経緯と、太原城内で挙兵し奮戦の末に自刃した義士楊可発の逸話を記す。

五日戊戌~七日庚子 張灝・張思正らも各地で敗退

  • 察訪張灝は汾州に駐屯し、統制張思正・折可求・冀景を郭山柵へ進軍させたが、金軍に撃破され思正・冀景は敗走した。

彗星出現、皇帝の自省の詔

  • 東北に彗星が現れたことを受け、皇帝は日常の贅沢を削減し宮女を放ち、言路を広げて自省する詔を八月八日辛丑に下した。

張灝、冀景を処刑

  • 張灝は潰兵を招集する布告を出し、統制以下の敗兵は罪を問わないとしつつ、敵に内通した疑いのある冀景を処刑した。

十五日~十六日 張思正、文水縣で一時勝利も翌日大敗

  • 張思正は夜襲で一時的な勝利を収めたが、翌日出撃した際に金の鉄騎に大敗し、数万の兵が谷を埋めて死亡する惨事となった。汾州・威勝・隆徳など諸州の民は老幼を連れて南へ避難し、州県は空になった。

二十日癸丑 四方に総管を置き都城防衛を強化

  • 朝廷は張灝らの敗報を受け、南道総管張叔夜、東道総管胡直孺、西道総管王襄、北道総管趙野をそれぞれ任命し、都城防衛体制を固めた。

侍御史胡舜陟、対敵戦略を論じる劄子

  • 胡舜陟は、漢唐以来の対敵策(和親・守備・征伐・撫定・覊縻)を整理し、現在の宋は国力が疲弊しており拙速な征伐は不利であるとして、漢高祖の和親策と漢文帝の守備策に倣い、宣撫司に諸将の決戦を督促させず要害を固めて時機を待つべきと提言した。皇帝はこれを容れ、諸将に伝達させた。