李若水、金軍陣営への使者に
- 三鎮の租税納入案を金へ伝える使者の選定にあたり、太常博士李若氷が推挙されたが、皇帝はその名を嫌い「若氷」を「若水」と改名させ、秘書省著作佐郎・借秘書少監として山西の金軍陣営へ派遣した。
二十一日甲寅 監察御史張澂を広南へ派遣、童貫を追討
- 童貫の処刑を執行するため、監察御史張澂が開封府の役人を率いて広南へ向かった。
二十三日丙辰 童貫、南雄州で処刑
- 張澂は南雄州で童貫に追いつき、聖旨に基づき斬に処した(首を落とすのに三刀を要したという)。首級は水銀に浸して京師へ護送された。
- 中興姓氏奸邪録は、童貫の生涯を詳述する。内侍から身を起こし、蔡京に取り入って青唐攻略・方臘討伐で功を挙げ枢密使にまで昇り、燕山攻略を主導したが実際の戦功は乏しく賄賂で名を買ったに過ぎなかったこと、私兵「勝捷軍」を厚遇して私党化したこと、艮岳の造営や花石綱による民の搾取で天下の怨嗟を買ったことなどを記し、最終的に太学生陳東らの弾劾を経て処刑されるに至った経緯を伝える。
二十四日丁巳 李若水、山西軍前和議正使に
- 李若水は吏部侍郎として山西軍前和議使に、王履は相州觀察使として副使に任じられた。
九月一日甲子朔 李若水・王履、出発
三日丙寅 王㝢、尚書左丞に任命後、使者拒否で処分
- 王㝢は起居舍人として正月の親征論に反対した経緯を持つが、尚書左丞として親征に関する詔書への署名を拒む劄子を提出し、拙速な親征が民心を動揺させる危険を訴えた。
- のち王㝢は自ら金国への使者に任じられたが、これを恐れて「祖宗の夢のお告げ」を口実に固辞しようとし、虚偽が露見して単州団練副使に落とされ新州安置となった。父の資政殿學士王易簡も連座して落職・宮祠に処された。
殿中侍御史胡舜陟、兵機の秘匿を求める劄子
- 胡舜陟は、金軍がしばしば偽情報(将領の死・撤兵など)を流して宋の油断を誘っている実態を指摘し、逆に宋側の用間・伏兵などの計略が三省・樞密院の公文を通じて広く伝わり、金の間者に漏れている恐れがあると警告した。軍機に関わる事項は公然と布告せず、将帥への密詔にとどめるべきと提言した。