五月五日庚午 士民の財穀による軍費援助を求める詔
- 皇帝は、財政窮乏の中で軍を興す費用を賄うため、漢武帝の故事に倣い、余裕のある士民に自発的な財穀の拠出を募る詔を下した。拠出者には等級に応じた恩賞を与えるとした。
八日癸酉 防秋のための募兵、蔡攸のさらなる処分
- 河北河東宣撫司は、正兵不足を補うため陜西で遊手の民を募り義勇兵とする案を上奏し、許可された。
- 臣僚は蔡攸の「七つの大罪」を列挙する上言を提出した。宮中での放埓な行状、蔡京配流後も同行を怠った不孝、宦官との結託、燕雲攻略での虚偽の戦功報告と過大な恩賞の窃取、金軍・郭薬師の裏切りを察知しながら隠蔽した罪、危急に際し公務より妻子の財産・家族の避難を優先した罪、樞密の要職にありながら真っ先に逃亡した罪である。これにより蔡攸は潯州安置に処された。
五月 种師中、榆次で敗死
- 河北制置使种師中は、枢密使許翰の督促に急かされ準備不十分なまま出兵、姚古・張灝の軍と合流できないまま金軍の急襲を受け、麾下わずか百余人となるまで奮戦して戦死した(六十八歳)。朝廷は嚮徳軍節度使を追贈し、祭文を賜り「旌忠」の号を与えた。一方、敗軍の統制官らは処罰された。
- 封氏紀年・節要・靖康小雅・傳信録など諸書は、种師中が糧秣・恩賞の物資を真定に置き去りにしたまま強行軍を続けたこと、許翰が兵機に疎いまま督責を強めたこと、援軍の姚古・張灝が到着しなかったことなどを、敗死の要因として記す。諸書はいずれも、責は无謀な用兵を強いた朝議にあり、种師中個人の忠義は惜しむべきものであったと評する。
- 焦安節・冀景・楊志・解潜・范瓊・劉韐・張灝ら他の諸将も各地で敗退し、河東・河北の防衛線は総崩れとなった。
奉使王雲、和議継続を上奏するも容れられず
- 王雲は金国との交渉から帰還し、金側が三鎮の租税納入(闗南十県の先例に倣う)で満足し撤兵する意向であると報告したが、太宰呉敏と不仲であったため、この提案は退けられ、王雲は鄧州知事に左遷された。
十三日戊寅 太上皇、還京し紫宸殿にて祝賀を受く
- 太上皇(徽宗)が京師に戻り、皇帝は紫宸殿にて百官の祝賀を受けさせた。
十九日甲申 姚古軍、盤陀で潰滅、太原の包囲深刻化
- 河東置制使姚古と副使种師中は、金軍の兵力を見誤って進軍したが、金の伏兵に阻まれ、种師中はすでに榆次で戦死、姚古も盤陀で金軍に遭遇し軍は潰走した。副将焦安節の煽動もあり、姚古は隆徳府からさらに退却した。
二十五日庚寅 武芸に秀でた人材の推挙を求める詔、諸将への恩賞
- 朝廷は各地に武芸・兵書に通じた人材の推挙を命じる詔を下し、皇帝自ら殿試を行うとした。
- 金軍との交渉で功のあった劉韐に金帯・戦袍などを賜う勅が下された。
- 种師中軍の潰散将佐には投降すれば罪を免じる猶予が与えられた。
- 司諫陳公輔は、河東での軍事的失敗を受けて朝廷が油断していることを憂え、大臣に辺事を第一に取り組ませるよう上言した。