三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

蔡京・童貫・蔡攸、さらに重い処分に

  • 臣僚は、蔡京・王黼・童貫がともに国政を壟断した元凶でありながら、王黼のみ誅殺され蔡京・童貫は寛大な処分に留まっていることの不公平を訴えた。
  • これを受け、蔡京は衡州安置、童貫は安化軍節度副使として郴州安置、蔡攸は永州節度副使として永州安置に処分が改められた。

王孝廸、落職の上宮祠に

  • 臣僚は、王孝廸が禮部・吏部尚書、翰林學士などを歴任しながら実務能力に欠け、李邦彦の縁者として抜擢されたに過ぎないと批判し、金軍侵攻時に民から金銀を強制的に取り立てる乱暴な布告を出して人心を離反させた罪を弾劾した。朝廷はこれを容れ、王孝廸を落職の上宮祠に処した。

右諫議大夫楊時、姚古の太原不救援を弾劾

  • 楊時は、金将尼堪が汾州一帯を蹂躙する間、河東制置使姚古が重兵を擁しながら逗留して太原救援に動かなかったことを厳しく批判し、軍法による処断を求めた。
  • 林泉野記は、姚古の経歴(西夏・燕山での戦功)と、その子姚平仲がかつて金軍陣営への夜襲に失敗し、种師中の戦死を招いた顛末を付記する。

十八日甲寅 虎符をもって諸路の兵を起こす詔

  • 金軍が秋に再侵攻する恐れに備え、諸路の按撫・総管・鈐轄司に将佐の選抜訓練、兵員の補充、武具・軍糧の備蓄を命じる詔が下された。

徐處仁、馬政の復興を上奏

  • 徐處仁は唐初の馬政(監牧制度)の成功例を引き、消耗の激しい川陜からの馬の輸送を改め、陜西の馬監から直接軍に配給する方式への転換を提言し、容れられた。

徐處仁、逃戸田土による郷兵募集を上奏

  • 徐處仁は、河北・河東・京東西などの官有地(戸絶田・逃亡地)を用いて壮健な民を募集し、陜西弓箭手の制度に倣って土地を与える代わりに軍馬・武芸の訓練を課す屯田兵制度の導入を提言し、容れられたが、後にあまり成果は上がらなかったと付記される。

耿南仲、門下侍郎に任命

  • 耿南仲が門下侍郎に任じられた。制詞はその清廉・学識・東宮輔導の功を称える。

二十日丙辰 金、常勝軍を粛清し郭薬師を燕京留守に

  • 斡里雅布は帰順していた常勝軍(郭薬師配下の漢人部隊)に武器の返納と故郷への帰還を命じ、途中の松亭関で数千人を虐殺した。郭薬師は形式上「燕京留守」とされたが実権を奪われた。
  • 中興姓氏叛逆傳は、郭薬師の経歴(遼の怨軍将領から常勝軍統率者となり、宋への帰順・燕山攻略の先導、燕山陥落時の裏切りに至る顛末)を詳述する。金は最終的に郭薬師の財産を没収し遼東へ幽閉、その子安国・安亮も戦死・誅殺された。

二十八日甲子 鄜延路軍馬使黄廸ら、汾州で対陣

  • 黄廸ら陜西諸路の軍が汾州東北の上賢に布陣し、金軍の接近に備え守りを固めたが、出撃はしなかった。

二十九日乙丑 何灌の子孫を処罰、姚平仲を懸賞手配

  • 臣僚の上言により、河を守れず敗死した何灌の子孫は連座して唐州に流され、行方不明の姚平仲には捕縛への懸賞金が課された。

尼堪、黄廸の陣を撃破

  • 金将尼堪は太原方面から騎兵を率いて黄廸の陣を急襲、矢が尽きたところを突破されて陣は崩壊し、周辺の諸陣も次々に破られ、兵器・軍需物資を放棄して敗走する事態となった。