三十日丙申 蔡京、德安府へ流罪
- 太上皇の南幸に随行していた蔡攸は、大中大夫として亳州明道宮提挙に任じられていたが、扈従を理由に入京しようとした。臣僚は「蔡京・蔡攸父子は威権を弄び朝廷の信を失わせた元凶であり、京城への立ち入りを許せば民変を招く」と弾劾し、蔡攸には引き続き扈従のみを命じ入京を禁じた。
- 続いて下された勅は、蔡京の罪状(紹述の名を借りた恣意的な政治改革、忠賢の排斥、国庫の浪費、私恩による官爵売買、宮禁との私的な結託など)を詳細に列挙し、崇信軍節度副使として德安府に安置する処分を下した。
四月三日己亥 太上皇、京師へ帰還
- 太上皇が鎮江府から京師に到着し、皇帝は宜春苑まで出迎え、龍德宮に迎え入れた。都人はこぞってこれを歓迎した。
- 耿南仲の建議により、太上皇の側近の内侍陳思恭・蕭道・李琮・張見道ら十人が入宮を禁じられ、違反すれば斬に処すとされた。
六日壬辰 太上皇への起居、李綱の辞退
- 皇帝が龍德宮に太上皇の機嫌伺いに赴いた。靖康遺録によれば、太上皇はしばしば自らを「老拙」と称する手紙を送り周囲へ財物を分け与えたが、皇帝は開封府に命じてその出納をすべて記録させた。
- 李綱は体調不良や進退の道義を理由に度々随行や在職の免除を願う劄子を提出したが、皇帝は御批をもってすべて却下し、慰留の詔を重ねて下した。李綱は謝表を奉り職に復した。
李綱、辺境防備八策を上奏
- 李綱は、金軍が一旦退いても秋に再来する恐れがあるとし、以下の八策を上奏した。
- 太原・真定・中山・河間などに藩鎮を置き、世襲の将帥に守らせて金への防波堤とする。
- 河北・河東の保甲を再編・訓練し、地元に根ざした兵力とする。
- 祖宗以来の馬監制度を復活させ、軍馬の調達を図る。
- 河北の塘濼(湿地帯の水利防御施設)を修復し、金の騎兵の侵入を阻む。
- 河北・河東諸州県の城池・楼櫓を修築し、防御拠点を固める。
- 金軍の被害を受けた三鎮の民の租税を免除し、民心を慰撫する。
- 辺境諸州の糧草備蓄制度を復活させる。
- 陜西の解鹽の旧制を復活させ、辺境財政を支える。
逃亡した官員の処分と武勇の士の推挙
- 太上皇の南幸時に職務を放棄して逃亡した官員(張権・衛仲逹・何大圭ら五十六人)を罷免する上言があった。
- あわせて、各地に武勇の使臣を推薦させる詔が下された。
十五日辛亥 斡里雅布、燕山へ帰還
- 許採『陥燕記』は、金将斡里雅布(斡離不)が燕山に帰還した際、燕山留守の蔡靖らと会見し、宋の失信を非難しつつも懐柔的な態度を見せた顛末、蔡靖一家が軟禁される緊張した情勢を記す。
金人、元帥府を設置
- 金は燕山と雲中にそれぞれ元帥府・枢密院を置き、東路軍を斡里雅布、西路軍を尼堪が統括する軍政機構を整えた。
十六日壬子 陳東、恩賞の辞退と蔡京父子の弾劾を上書
- 太学生陳東は、伏闕上書の功により迪功郎・同進士出身を授けられたことを固辞する上書を提出した。
- 陳東は、昨年来の伏闕上書はすべて蔡京ら「六賊」の誅殺を求める忠義の行為であり、褒賞を求めたものではないと述べた上、蔡京・蔡攸父子がなお正式な処罰を免れている現状を厳しく批判した。
- 蔡京の数々の悪事(讖言めいた地名・姓の改変の企み、反乱者との内通疑惑、言路封殺、一族での権力独占など)、蔡攸の驕慢・不忠・燕山の役での失態・太上皇南幸時の脅迫的随行などを詳細に列挙し、王黼が既に誅殺された以上、罪がそれ以上に重い蔡京・童貫・朱勔も同等に処断すべきと訴えた。