十七日癸未 太上皇還京の途、李綱を南都へ派遣
- 太上皇(徽宗)が鑾駕を南都まで進めたのを受け、朝廷は李綱を出迎えの使者とし、行宮の官へ茶薬・銀合を賜った。
- 傳信録によれば、太上皇は当初理由を告げず李綱・呉敏の来訪を求めたが、皇帝は「朝廷の様子を知りたいだけ」と説明し、李綱を派遣した。二十一日、南都で引見した李綱は、皇帝の孝心と都城守禦の功が太上皇の徳によることを言上し、太上皇は感涙して皇帝の仁孝を賞した。
- 李綱は太上皇に早期の還京を願う劄子と、自らの引退を願う劄子を提出したが、太上皇は慰留した。両者の間で、都城の水害を論じた過去のいきさつ、金軍撤退時に追撃しなかった理由(粛王が金軍中にあったため)、行宮への物資供給を制限した理由などが語られ、父子間の疑念を解くよう李綱が進言すると太上皇はこれに同意し、玉帯・金魚袋・古象簡を賜った。
十八日甲申 河北方面、金軍撃退の報
- 尚書省の劄子により、高陽關路安撫使や中山府路安撫使詹度からの報告が布告された。中山府は籠城戦の末、金軍が城の守りが堅いのを見て北へ撤退したこと、四太子配下の将らを討ち取るなど戦果を挙げたことが伝えられた。
十九日乙酉 太上皇后、京師へ帰還
二十一日丙戌 太上皇、鑾駕を南都に進める
二十三日己丑 澤州守城の功により褒賞
- 澤州を守り抜いた知澤州髙世由・通判時惇の功が賞され、髙世由は直龍圖閣、時惇は直秘閣にそれぞれ任じられた。
二十四日 姚古、隆徳府を奪還
- 河東路制置使姚古が隆徳府を奪還し、金の傀儡知府姚璠(太師)・通判郝伸・知縣儲汶らを生け捕り京師へ護送した。
- 范仲熊『北記』は、姚古配下の王徳が奇襲によって姚璠を捕らえた顛末を伝える。この功を受け、朝廷は諸路に将佐の選抜・訓練、器甲・軍糧の備蓄を命じる手詔を下した。
二十五日辛卯 李綱、南都より帰京、諸将への論功
- 李綱が南都から都に戻った。中山路安撫使詹度・河東安撫使張孝純・高陽關路安撫使らが守城の功により資政殿學士に任じられた。
- 一方、宇文虚中は落職の上宮祠に処され、鄭望之・李鄴・王孝廸ら和議交渉に関わった官も相次いで処分された。
二十六日壬辰 姚古、威勝軍を奪還
- 姚古が威勝軍も奪還した。河北宣諭使种師道からは、中山府・河間府周辺で金軍を国境外へ撃退した旨、前後八十余度の戦闘・刼寨で敵軍五百九十九人を討ち取り捕虜とし、擄われていた京畿・諸州の民五千二百余人を奪還したとの詳細な戦果報告がなされた。
二十七日癸巳 李綱、宮祠を願い出る(第一劄子)
- 傳信録によれば、この日、耿南仲は太上皇の側近を全て排除し内侍を斬に処するとの強硬策を提案したが、李綱は疑念をいたずらに強めるだけだと反対し、両者は延和殿で激しく議論した。
- その直後、耿南仲は「陳公輔は二月五日の伏闕事件を李綱が仕組んだと疑っている」と皇帝に讒言し、李綱を御史台での取り調べに付すよう求めた。皇帝はこれを退けたが、李綱は自ら宮祠(引退の閑職)を願う劄子を提出した。
郴州にて趙良嗣を誅殺
- 監察御史胡舜陟の上奏により、辺患の元凶とされた帰朝官趙良嗣(金との燕雲交渉を主導した人物)が処刑され、子孫は吉陽軍に編管された。
二十八日甲午 李綱、重ねて宮祠を願い出る(第二・第三劄子)
- 李綱は重ねて辞職を願い出たが、皇帝はいずれも御批をもって却下し職務に復帰するよう命じ、李綱は最終的に職に留まった。
監察御史余應求、宦官の軍事関与を戒める劄子
- 余應求は、内侍が軍政に関与することの弊害を歴史上の例(唐の監軍、童貫・譚稹の専横)を引いて説き、河東承受の王嗣昌が軍政への関与を求めたことを危険な前例になると批判した。朝廷はこれを容れ、王嗣昌の申請を却下した。