聶山、伏闕事件の処分停止を求める劄子(二月十八日甲寅)
- 聶山は、蔡懋・李稅が太學の長官に命じて学生の伏闕上書を弾圧させたこと、さらに稅が学生・百姓の処罰を計画していることを憂慮し、上奏した。
- 民衆の怒りは積年の内侍の横暴によるもので、皇帝の仁徳を頼みにした自然発生的な行動であり、李綱の旧知を誅殺しようとする稅の言は人心をいっそう離反させると説いた。
- 上はこれを容れ、ただちに処分停止を命じた。
靖康錄が補う伏闕事件の経緯
- 士庶の伏闕上書に対し皇帝は感動して忠義を嘉したが、蔡懋・李稅・王時雍らはこれを「群衆が天子を脅した」行為とみなし、厳罰を主張した。
- 太學正の魏孝友・呉若らが上書して李邦彦の無実を弁じたのに対し、稅は太學長官の黄哲・黄唐を弾劾しようとしたが、上の裁断で沙汰止みとなった。
- 戸部尚書の聶山が冤獄の拡大を憂えて密奏し、皇帝は伏闕した諸生らを赦免、開封府・三衙には今後同様の事があれば厳罰に処す旨の榜文を掲げさせるにとどめた。
- 太學正の呉若は上書して罪を得、これに迎合した長官らが陳東ら太學生を排斥しようとしたが、朝廷は改めてこれを取り消し士論を安んじた。
- 記主は、忠亮清廉の徐処仁が中書に召されながらかつて蔡京門下であったことを理由に非難されている状況を憂い、諫官が李邦彦の縁者謝克家であることを指摘して、君子と小人の相容れざる様を嘆じた。
秀水閒居錄が伝える伏闕事件の顛末
- 靖康元年正月、金軍が都城近郊に迫り和議が進む中、正月十一日に欽宗が即位、二月一日夜には姚平仲らが金軍陣営を夜襲するも失敗、翌日に李綱が政務を罷免された。
- 二月五日、太學生陳東ら数十人が端門下に伏して李綱の留任を求め、群衆が集結して内侍数十名を殺害する騒動となった。六日、李綱は知樞密院事に復し、耿南仲は関与者の処罰を求めたが容れられなかった。
- 金軍撤退後、太原救援のため李綱を宣撫使に任じたが固辞、許翰の督促でようやく渡河するも遅延し、种師中が太原で戦没、李綱も罷免されて金軍の再侵入を招き、ついに二帝が北へ連行される事態に至った。この顛末を記主は痛惜する。
諫議大夫唐重、太上皇の奉迎を論じる劄子
- 唐重は、太上皇(徽宗)が二十六年の治世の後、動乱により南方へ避難した労苦を思い、和議が成った今こそ使者を遣わして法駕を京師へ迎えるべきと上奏した。
唐重、和議と用兵の方策を論じる劄子
- 唐重は、金の侵攻に対し、金帛・土地の割譲で急場をしのぎつつ軍備を整えて機を見るのが上策であるとし、和議を守りつつも先に兵を用いてはならないと説いた。
- 敵が盟約を破った場合は三鎮に死守させ、反間の計を用い、大軍で退路を断つべきとし、京師での決戦は避けるべきと論じた。
唐重、大臣の御筆濫用を論じる劄子
- 唐重は、近年の乱の原因は大臣が御筆を私用して専権をふるったことにあるとし、蔡京・童貫の専横を例に挙げた。
- 李綱が独断で行営の軍を動かし、御筆の名を借りて姚平仲の夜襲を強行し失敗したことを非難し、綱の罔上誤国の罪を糾すべきと求めた。
唐重、制置使王蕃の逃亡を論じる劄子
- 唐重は、京畿兵馬制置使に任じられた王蕃が敵の接近に際して民を守らず妻子を連れて逃亡した罪を弾劾し、率いた兵二千余も略奪に及んで民を苦しめたと述べ、厳罰を求めた。
沈琯、李綱に上書し賞罰の明確化を求める
- 沈琯は、金軍の強大さと宋の弱体化を嘆き、親王・都尉より宰相・枢密の地位を金への人質・使者に軽々しく用いたことを批判し、是非を明らかにして賞罰を正すよう李綱に求めた。
- のち事態が改まらぬのを見て、致仕して郷里に帰った。
開封府、内侍宅への論訴・百姓圧迫を止める布告
- 開封府は、内侍宅を襲った民衆のうち首謀者は既に処罰・財物没収済みであるとし、朝廷の赦令に従いこれ以上追及しない旨を布告した。密告者には懸賞金二百貫を与える一方、なお騒乱を煽る者は厳罰に処すとした。
十九日己邜 尼堪、威勝軍を陥落
- 金将の尼堪は太原を包囲したまま兵を分けて南下、南北関を過ぎ「これほどの険阻をわれに越えさせるとは、南朝に人材なきなり」と嘆じた。威勝軍の権知軍事李司録が城を献じ、尼堪は隆徳府へ向かった。
京城四壁守禦使司、募兵停止の布告
- 都大提挙京城四壁守禦使司は、金軍撤退により募兵を停止する旨を布告した。
尼堪、隆德府を陥落
- 尼堪は威勝軍から隆德府へ進み、知府張確が防戦したが二日で落城、張確・通判趙伯臻は殺害された。尼堪は燕人の姚璠を知府に、部将尼雅滿を隆德府の守将とした。
二十二日戊午 尼堪、澤州へ進軍
- 尼堪軍は隆德府から南下して澤州を攻めようとしたが、澤州側に備えがあることを知り、城への攻撃を控えた。