三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

楊時の三鎮利害論

  • 二月十六日壬子、楊時は上書し、祖宗の対外政策の穏健さを称えつつ、辺吏の失策で講和が破れたことを憂えた。金軍が磁州・相州で誓約を破り略奪を行った事実を挙げ、「城下の盟は守るに足らず」と説き、肅王が金に連行された(当初は黄河までの約束だった)ことを重大な背盟とみなし、肅王送還を強く要求すべきと主張。三鎮の民に死守させつつ後方から重兵で支えれば必勝であるとし、憲宗の淮西平定(韓愈「惟斷乃成」の言)を引いて即断を促した。
  • 封氏紀年も同様に、三鎮(趙魏韓晋の地)を割けば中国の存立自体が危うくなると論じ、翌年の太原陥落・京城失陥という結果をもって警鐘としている。

郭薬師の磁州略奪

  • 郭薬師は磁州に至り、燕山府に支給予定であった寄収銀三十万両を奪取した。既に燕山は陥ち藥師も金に叛いていたが、この銀は磁州軍資庫に封じられており、郭薬師は牒を示して脅し、知州趙将之から奪い取った。

河東・河北の防備再編

  • 尼堪(ニェンハン)の軍が太行山に拠り河津を睥睨する情勢を受け、种師道を太尉・河東河北宣撫使として滑州に駐屯させる制書が下った。制書は种師道の剛毅・謀略を称え、辺境の守りを託した。
  • 姚古を検校少師・河東路制置使として太原救援に、种師中を河北路制置副使として中山・河間救援にそれぞれ充てた。行移文書の系統(枢密院系統は決戦を迫り、三省系統は境外への護送を命じるなど)が一致せず、両将は対応に苦慮した。
  • 磁州で郭薬師に奪われた銀三十万両について、倉部郎中黄鍔・都運使張慤が知州趙将之を糾明しようとしたが、黄鍔がとりなして事なきを得た。
  • 京都では質庫・舗戸に営業再開を促す牓文が出され、経済活動の正常化が図られた。

太上皇への起居と講和経緯の報告

  • 李綱は太上皇(徽宗)への起居表を奉り、京城攻防の経緯(七日夜の西水門・酸棗門の攻防、講和成立の顛末)を報告し、太上皇の江南での安泰を願った。あわせて再度の劄子で、正月七日の攻城戦の詳細と、皇帝の聖断による講和成立の経緯を改めて言上した。

太学生騒動の余波

  • 国子司業黄哲は、太学生の伏闕上書を止められなかった責を問い処分を求めたが、上は「忠義の発露であり学官が咎を負う必要はない」として却下した。
  • 呉敏は劄子を上奏し、李邦彦の罪状を弁護。上皇への諫言や擁立の功を挙げ、「畏慎に過ぎたための不運」と擁護したため、論者は呉敏を邦彦の党とみなした。

种師道の宣撫使罷免

  • 十七日癸丑、种師道は宣撫使を免ぜられ、五日に一度朝参する程度の閑職に置かれた。滑州駐屯・防秋のための諸軍召集の要請は、費用を懸念する宰臣により沙汰止みとなり、师道は病と称して辞任を願い出た。

蔡京・童貫・蔡攸の断罪

  • 十八日甲寅、蔡京は中奉大夫・秘書少監に落とされ分司南京致仕・河南府居住を命じられた。侍御史孫覿らの上言は、蔡京の四度の宰相在任と二十年に及ぶ弊政(蠹国害民の政、豊亨豫大の風潮、御筆による法の壟断、朋党の禁錮、売官鬻爵など)を糾弾し、燕雲経営の首謀者としての罪も問うた。
  • 童貫は左衛上将軍致仕に落とされた。臣僚の上言は童貫の「十大罪」(金との結託による契丹滅亡の禍根、盧溝の役での敗走、辺境情報の隠蔽、河東での逃亡、勝捷軍の私兵化、宮中を模した奢侈、勤王軍の物資横領など)を列挙し、厳罰を求めた。
  • 蔡攸は太中大夫・提挙亳州明道宮に落とされた。臣僚の上言は、蔡攸が父蔡京・童貫と共に燕雲の役を主導し、金との内通を疑われる行動をとったことなどを列挙。蔡攸自身も劄子を奉り、父の高齢と西京への左遷を理由に、扈従を辞して省侍に赴きたいと願い出た。