三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

太學生沈長卿の上書「賞罰を明らかにすべし」(二月二十二日戊午)

  • 沈長卿は、国家興亡の分かれ目は君主の賞罰の公正さにあるとし、舜が衆議によって八元八愷を挙げ四凶を退けた故事、漢末・唐末が賞罰不明のため衰亡した例を引いて上書した。
  • 二月五日の伏闕事件の経緯を述べる。李綱罷免に反発した太學生陳東ら数百人が端門に伏し、集まった数万の民衆が内侍数十人を殺害する騒動となったが、これは積年の内侍の横暴への怨みが臨界に達した結果であり、陳東ら一書生が扇動しうるものではないと弁じた。
  • 事件当初は忠義として赦されたにもかかわらず、後に朝廷が同種の行動を極刑に処す旨の御筆・榜文を出したことの矛盾を突き、秦始皇の焚書坑儒が秦滅亡を招いた例を挙げて、忠義の士を罰すれば天下の人心が離反すると警告した。
  • 呉敏が榜文を掲げて李邦彦を弁護したことを批判し、邦彦の素行の悪さや政治責任を列挙、司馬光が天下に慕われたのと対照して邦彦の孤立ぶりを指摘した。呉敏は蔡京・蔡攸一派と通じており、邦彦を擁護するのは自らの党派を保つためではないかと疑いを述べた。
  • 漢の元帝が柔弱で佞臣に翻弄され宣帝の業を衰えさせた例を戒めとし、陛下には剛断をもって讒佞に惑わされぬよう求めた。
  • 自身が身の危険を顧みず上書する理由として、忠と孝は両立し難くとも忠義を貫くべきとの信念を、友人との対話を引いて述べた。

二十四日庚申 尼堪、澤州付近まで進出

  • 尼堪の軍が澤州を通過し、遊撃隊が孔寨河にまで達したため、晋州・絳州一帯は厳戒態勢に入った。

太學正呉若、上書して呉敏・李邦彦を弾劾(二十六日壬戌)

  • 呉若は、朝廷が求言の名はあっても実際に言を用いる実がなく、進賢の志はあっても賢を用いる方策がないと批判し、現状の混乱の責は宰相人事の誤りにあると説いた。
  • 張邦昌が単に童貫の非を面折した功のみで宰相に抜擢されたことを浅慮とし、呉敏についても蔡攸の死党との噂があり、李邦彦を弁護した劄子の実質は蔡攸一派を擁護するためのものだと論難した。
  • 李邦彦の罪状として、燕雲攻略の失敗を座視して責任を取らず、金軍接近時には妻子を先に逃がして自らも避難を図り、和議交渉でも軟弱な対応に終始したことを列挙した。
  • 蔡京・蔡攸父子への温情を戒め、丁公を斬った漢高祖、魏徴を用いた太宗の故事を引き、私恩ではなく天下の公義によって処断すべきと説いた。
  • 和議使節として失態を演じた李鄴・鄭望之らが高位を得た一方、進士雷觀らへの褒賞が過大であることなど、名器・恩賞の乱用を批判した。
  • 康王(のちの高宗)が金軍陣営への使者を務めた功に対する恩賞が過大であるとし、陛下より密かに康王へ辞退を勧めるべきと提言した。