三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

講和と主戦論の対立

  • 正月十一日丁丑、李綱・沈琯は執政と東府で協議。沈琯は「金の実兵は多くても三万余、渡河した兵はその半分程度」と伝え、帰路を待って邀撃すべきと説いたが、李稅は「戦って勝てるのか」と強く反発。李綱は「恐れる必要はない」と応じ、沈琯は「戦闘の可否は自分の判断することではないが、帰路を重兵で押さえれば必勝の策となる」と重ねて説いた。

康王の人質と和議誓書

  • 十四日庚辰、皇弟康王・少宰張邦昌が大金軍前への使者となった。誓書では、太上皇と大金皇帝の兄弟の誓いを継承し、太原・中山・河間以北の疆界画定、金銀疋帛の期日通りの納付などを約した。
  • 金は当初親王を人質に求め、上が「誰が行くか」と諸王に問うと康王が進んで名乗り出た。康王の英邁な様子に、張邦昌は密かに上に「便宜あれば一親王に拘泥するな」と奏したが、康王はこれを聞き「これは男子たる者の務め、丞相はそのようなことを言うべきではない」と諭した。

沈琯の軍事献策

  • 沈琯は李綱に書を送り、金軍の実勢(騎兵不足、馬の不足、金帛への執着)を分析し、帰路を重兵で挟撃すれば必勝であると説いた。城下の決戦は避けるべきだが、退路での邀撃は行うべきとし、澶淵の役で寇準が親征を主導した故事を引いて李綱の決断を促した。さらに七か条の具体策(交割拒否への備え、楊志の内応工作、西兵の急派、金軍兜鍪の弱点を突く棍棒戦術など)を献じた。

歳幣の減額と金銀の徴発

  • 十五日辛巳、斡里雅布(オリヤブ)は返書で、歳幣を当初要求から減額し常年百万貫(銀二十万両・絹三十万疋相当)とすること、疆界画定は来年正月まで待つことなどを示した。
  • 朝廷は官民の金銀を徴発する指揮を出し、倡優・伎楽・築毬師などの家財まで対象とし、隠匿者は厳罰、密告者には褒賞を与えるとした。

細作騒動と飢饉

  • 十七日癸未、燕山出身者らが疑われ「細作(間諜)」狩りが横行し、誤認による死者も出たため、数日後に取り締まりを禁止する榜が掲げられた。
  • 十八日甲申、大風雪の中、包囲が続き食糧が値上がりして餓死者が相次いだ。朝廷は金軍に牛の要求撤回などを求める書を送り、沈香山子・花犀酒器などの品を贈った。

平陽府義勝軍の叛乱

  • 十九日乙酉、上は宣徳門で王師を慰労した。同日、平陽府の義勝軍(山後漢人からなる部隊)が叛乱を起こし尼堪(ニェンハン)に帰順した。将官劉嗣初は「投附人皆殺し」の噂に動揺し、太原陥落の情勢を見て叛意を固め、平陽城を占拠して掠奪の限りを尽くし、金に帰順した。この混乱で通判王某ら多くが殺害された。
  • 二十日丙戌、斡里雅布は贈答への謝辞を上奏した。

种師道の入京と主戦論

  • 京畿河北路制置使种師道と統制官姚平仲が涇原・秦鳳の兵を率いて京師に至った。种師道はゆったりと行軍しつつ、先発の二十騎に蠟書を持たせ京師の士気を鼓舞、金の遊騎の間を強行突破させて京城に希望を与えた。
  • 种師道は入城後、京城の堅固さを説き「囲むより連珠寨を築いて対峙し、金軍の糧道を断てば必ず自滅する」との策を献じた。宰相李邦彦との対話では、種師道が「守も戦も一体、京師数百万の民は皆兵たり得る」と喝破し、邦彦を辞に窮させた。
  • 上は种師道を検校少保・同知枢密院事・宣諭使に加えた。金の使者は師道を恐れ、礼を屈するようになった。

犒軍金銀の窮乏と「四盡」の榜文

  • 詔により中書侍郎王孝廸が金銀の収集にあたったが、宗廟・宮禁・百官士庶の供出でも金三十余万両・銀千二百余万両にとどまり、目標額に遠く及ばなかった。朝廷は再度榜文を出し、応じなければ「男子尽殺、婦女駆掠、屋宇焚焼、金銀竭尽」に至ると警告した。この榜文は「四盡」と呼ばれ、都人の怨嗟を買った。

諸路勤王兵の集結

  • 熙河路経略使姚古・秦鳳路経略使种師中、および折彦質・折可求・劉光世・楊可勝・范瓊・李寳ら諸路の勤王兵、総勢二十万が京師に至り、人心はようやく落ち着きを見せた。
  • 絳州通判徐昌言は、平陽府の乱の教訓から義勝軍統領牛清の叛意を察知し、先手を打って義勝軍を討滅した。