三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

講和条件の再交渉

  • 正月二十四日庚寅、斡里雅布(オリヤブ)は再び上奏書を送り、御書による懇篤な諭旨に感謝しつつ、中山・河間両府の交割と、近臣による管理・境界画定を求めた。割譲地の官員のうち現地出身でない者の処遇や、大楽百余人の返還についても言及した。計議使として耶律忠・太平甫を派遣する旨を伝えた。
  • 朝廷は李稅を通じて金珠帯・犀帯・玉椀・玉盃・鞍轡などの贈物を送り、盟約の永続を願う書を送った。
  • 金は改めて肅王を人質として求め、康王の帰還を求める書を送った。書中には康王を長く軍中に留めたことへの気遣いと、肅王を迎えた上で康王を帰す旨が記された。斡里雅布は金一万鋌を添えて康王を送還する使者を派遣した。

王黼の誅殺

  • 王黼は官爵をすべて剥奪され衡州へ流罪となったが、道中で誅殺された。靖康遺録によれば、王黼邸は金銀財宝が億万を数えるほど豪奢で、籍没に際し民衆が争って邸内に乱入し掠奪、官もこれを制止できなかった。王黼自身は応天府杞県南の負固村で追手に斬られ、首は京師に送られた。
  • 秀水閑居録によれば、王黼の邸宅は螺鈿・漆器・碾玉の調度に満ち、「西村」と名付けた奇石の庭園まで築くなど、都人が不吉とみなすほどの華美さであった。
  • 靖康前録によれば、府尹聶山が追討を進言し、追討の官吏は応天府杞県の南十里、負固村で王黼を討ち取った。随行の金帛は盗賊に掠奪され、官吏邢倞の措置も不十分で、王時雍が搬入者に賞を与えると偽って財を集め、首謀者数十人を梟首するなどの混乱が続いた。
  • 中興姓氏姦邪録によれば、王黼は開封の人、崇寧二年進士。蔡京・梁師成に取り入って栄達し、宣和初年に少宰、燕山経略でも童貫・蔡攸と結んで功を誇り、宣和五年には太師・楚国公にまで昇った。宣和六年に李邦彦の讒言で罷免され、靖康初めに広州安置の上、使者により斬られた。享年四十八。
  • 宣和録には、王黼が邸宅に生じたとされる「芝草」(瑞祥)を上皇に奏上した表文と、それに応じた上皇の詔勅の全文が収められ、当時いかに阿諛追従が横行していたかを物語る。
  • 北征紀実によれば、王黼は燕山経営で財政を圧迫しつつも巧みに取り繕い、免夫銭(燕山の役の代納金)六千二百余万緡を集めながらその大半の使途を隠蔽した。王黼罷免後、燕山は困窮を深め、山東河北で盗賊が蜂起するなど後遺症が続いた。
  • 別録によれば、開封府の捕吏韓応らが正月二十四日、雍丘県城南二十里の永豊郷輔固村で王黼を賊に殺害されたものとして首級を検分・上申した。