李綱の京城守禦使就任
- 正月六日(原文「六月壬申」は「正月六日」の誤記と見られる)、親征行営の輜重が尉氏に至った際、李綱は親征を止めて城を守るべきと献議し、御営京城四壁守禦使に任じられた。
- 詔により、軍兵の団結・防戦の功に応じ特別な恩賞を与えることが布告された。また戦時に伴う諸司局所の整理・統廃合が命じられ、留後苑作・御前製造など五十余の機関が廃止された。
- 閤門宣賛舎人呉革は関中から兵を率いて勤王のため入城。金軍への対応策を宰相唐恪に献じたが容れられなかった。
宰相の交代
- 太宰白時中が罷免され宮祠に、李邦彦が太宰、張邦昌が少宰にそれぞれ任じられた。制書では白時中の長年の功労を称えつつ退任を、李邦彦・張邦昌には国難に当たっての重任を託す旨が述べられた。
- 幼老春秋によれば、李邦彦は懐州の銀匠の子で、進士に取り入って栄達し、内侍に諂って累進、大観二年に状元及第。政務よりも俚謡の作に長け「浪子宰相」と渾名された。
- 王淙濋(上の母方の親族)が殿前司公事を主管することとなったが、驕慢で任に堪えず、識者はこれを危惧した。
京城守備の整備
- 正月七日(原文「七月癸酉」は同様の誤記と見られる)、都城四壁の守備が整えられた。伝信録によれば、親征行営司は大晟府に置かれ、参謀・書写・統制・統領などの職を文武官から選び、絹銭各百万を賜って自由裁量を認めた。四壁それぞれに正兵一万二千余を配し、敵楼・氈幕・砲座・弩床・磚石・燎炬・火油など防禦設備を整え、前後左右四軍(各八千人)を編成した。
- 斡里雅布(オリヤブ)が京師に迫り、城門は昼も閉ざされ、逃げ惑う男女数万が金軍に殺傷された。金軍は城外で放火し、城内は恐慌に陥った。
西水門・酸棗門の攻防
- 金軍は小船で西水門を攻めたが、李綱は敢死の士二千を募って迎撃、長鉤で船を破壊するなどして一夜を守り抜いた。
- 続いて酸棗門一帯への攻撃が激化。李綱は禁衛の弓兵千人を率いて城に登り、雲梯を焼き払い、間諜と誤認した漢人の首を晒すなどの混乱もあったが、厳しく統制して収拾した。将士の奮戦により、卯から未の間に敵数千を討ち、金軍は攻略を諦めて退いた。
- 上は使者を遣わし将士を慰労し、内庫の銭酒・銀碗・彩絹などを賜った。
講和交渉の開始
- 尚書駕部員外郎鄭望之が工部侍郎を仮借して大金軍前計議使に、高世則が副使に任じられ、斡里雅布軍前に派遣された。
- 鄭望之の奉使録によれば、望之は仕度もそこそこに安遠門から出て金軍の陣を訪ね、燕人の吴孝民・金人と目される人物と交渉した。吴孝民は「趙皇はすでに即位の赦書を得ており、争わず和議に応じ、河を境として犒軍の金帛を差し出すべき」と迫った。望之は「一方的に物を差し出すのは講和ではなく強奪だ」と反論しつつ、都亭駅に至り御筆を待った。
- 靖康前録によれば、正使には当初候栖筠が擬されたが行方知れずとなり、急遽鄭望之が戸部侍郎を仮借して充てられ、副使には郝抃が選ばれた。