三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

親征の詔と斡里雅布の渡河

  • 正月三日己巳(原文は「三月己巳」とあるが、本巻の紀年範囲から正月三日の誤記と見られる)、朝廷は親征の詔を下し、真宗の澶淵親征の故事に倣うよう命じた。
  • 斥候により斡里雅布(オリヤブ)軍が黄河を渡ったことが知れ、刑部尚書蒋猷ら侍従官は避難を求めたが、李綱がこれを強く諫めて押し留めた。
  • 沈琯南帰録によれば、金軍は小船を使って渡河し、宋軍の脆弱さを見て「南朝には人材がいない」と嘲った。
  • 太上皇(徽宗)は亳州の太清宮への焼香を名目に東幸する詔を出し、実際には十二月初四日夜に通津門を出て東へ避難した。童貫・蔡攸・朱勔らが護衛し、従う百官もあった。

親征をめぐる議論

  • 正月四日庚午(原文「四月庚午」も同様の誤記と見られる)、越王は上表して親征に反対し、都城堅守を訴えた。
  • 敢死の先鋒を募る小牓が出され、京城の民や諸路の吏卒、勢貴の家までもが自弁で兵を募った。
  • 北征紀実によれば、蔡翛(蔡絛の兄)は澶淵の役の故事を引き、都邑固守は困難だが陝西に拠って形勢を立て直すべきと献策し、天子も一時これに動かされたが、最終的には都城死守の方針が固まった。蔡絛は永興軍知事に転出を命じられた。
  • 任諒の墓誌によれば、任諒はかつて燕山の役に反対し、郭薬師の必ず叛くことを予見していたが容れられず、金軍侵入時にはすでに病篤かった。
  • 呉敏を知枢密院事、唐恪を吏部尚書とするなど多数の人事が発令された。
  • 大学正秦檜は三つの封事を上奏し、①金軍への安易な譲歩を戒め歳幣は契丹への例に準ずるべきこと、②渡河の兵への備えを固めるべきこと、③燕山などの割地要求に軽々に応じず百官議定の上で盟書に載せるべきことを説いた。
  • 王黼は崇信軍節度副使に貶され、この日、尚書張勧・衛仲達・何大圭ら五十人が官を棄てて逃亡した。

李綱の親征行営使就任

  • 正月五日辛未、尚書右丞兼知枢密院事の李綱が親征行営使に、曹曚が副使に任じられた。
  • 李綱伝信録によれば、欽宗は即位前から李綱の上疏を記憶しており、李綱は水旱・金の要求(尊号・帰朝人・歳幣増額・犒師の物・割地)への対処方針を献策、特に土地は祖宗の遺したものとして死守すべきと説いた。
  • 宰執らが襄鄧への避難を進言する中、李綱は「都城を捨てれば宗廟社稷を失う」と強く反対し、太宰白時中との激論の末、京城守禦の可否を検分するよう命じられ、実地を見て「守れる」と判断、上に復命した。
  • 一時は南幸の準備(中宮・皇太子の出発、廟主の搬出)まで進んだが、李綱は禁衛の兵に「死守か南幸か」を問い、皆「死守」を叫んだことを受けて上を説得。欽宗は輟行を決断し、宣徳門に登って将士を慰労、固守の方針が確定した。
  • 李綱は尚書右丞兼親征行営使に任じられ、曹曚を副使とした。封氏編年・靖康前録も同様の経緯を伝え、白時中・張邦昌らが南幸を勧めたのに対し李綱・燕越二王らが強く反対し、最終的に固守が決したと記す。
  • 親征行営副使司は武勇の士を募る牓を出し、才幹・武功のある者を身分を問わず募集した。