三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

改元と朝賀

  • 正月一日丁卯朔、上(欽宗)は明堂で百官の朝賀を受け、改元の詔を下し、宣和八年正月一日を靖康元年と改めた。
  • 秀水閑居録によれば、改元の議論では「和敵」を主眼に「慶祐」など複数案が検討されたが、字義の懸念から最終的に「靖康」に決した。当時の識者は「靖」の字を年号に用いることを不吉とする議論もあったが、欽宗が「康邸」出身であることに因む象徴として用いられた。
  • 范致虚は賀登極表を奉り、天命による継承を寿いだ。大学士(蔡靖の後任等)は宣徳門で百官と共に祝賀し、龍徳宮に赴いて太上皇に起居を伺った。

相州陥落と直言の詔

  • 斡里雅布(オリヤブ)は相州を陥とした。
  • 朝廷は中外臣僚・民庶に実封直言を許す詔を下し、諫言の道を開いた。
  • 文武官の中から堪えうる将帥を挙げるよう詔した。

濬州の陥落と河防の崩壊

  • 正月二日(原文は「二月戊辰」とあるが、本巻の紀年範囲から見て正月二日戊辰の誤記と見られる)、斡里雅布は濬州を陥とした。梁方平の軍は潰走して橋を焼いて逃げ、何灌も戦わずして潰走し闕下に逃げ帰った。
  • 靖康前録によれば、梁方平は滑州で油断して敵の急襲を許し、橋を焼いたが完全には落としきれず、金軍はこれを修復して渡河した。何灌も梁方平の敗走を見て自らも逃げ、汜水関でも潰走を重ねた末に京師へ逃げ戻り、朝廷内外は大いに動揺した。
  • 郭薬師は金軍の先鋒として濬州攻略に大きく寄与し、黄河を境界とする和議や京師の内情まで金側に通じていたとされる。