三朝北盟會編 炎興下帙 高宗 紹興十二年 1142年
正月
- 枢密使張俊が行在に戻った。数度の固辞を経て復職した。和議に基づき泗州・唐・鄧・商州が金に割譲された。長年商州を守ってきた邵隆は、この地の割譲を深く悔やんだという。
- 十六日庚戌、鎮江府知事劉子羽が徽猷閣待制に復した。和浹が岳飛の冤罪を訴える上書をして袁州に編管された。
二月
- 枢密行府参議官史愿が敷文閣待制に加えられた。楊沂中に「存中」の名が賜られた。
三月
- 一日丁未、鄂州駐劄御前諸軍統制王貴が罷免され、福建路馬歩軍副都総管に転じた。田師中が殿前都虞候・鄂州駐劄御前諸軍都統制となり、張俊の強い推挙によるものであった。岳飛旧軍の中には不服を唱えて辞めようとする者も多かったが、田師中は内侍への取り入りで地位を保ったという。
- 十三日壬子、莫将・周聿が京西の割地を終えて帰還した。朝廷と金の元帥との間で境界画定を巡る書状のやり取りが続いた。
四月
- 孟忠厚・王次翁が梓宮(徽宗の柩)と皇太后の出迎えに赴いた。金が徽宗・寧徳皇后の梓宮と皇太后の返還を許したことによる。
五月
- 三日、沈昭遠が賀大金生辰国信使として金へ派遣された。簽書枢密院事何鋳が罷免された。金の元帥からの書状(第六書)が届き、張中孚・張中彦兄弟や鄭億年、張孝純・杜充・宇文虚中らの家族の宋への引き渡しを求める内容であった。朝廷は概ねこれに応じつつ、鄭億年本人の意志により彼自身は残留を希望していることなどを回答した。
六月
- 四日乙丑、鎮西軍節度副使呉璘が参内した。
- 十一日壬申、王庶が嚮徳軍節度副使・道州安置に落とされた。秦檜が和議に反対する王庶を憎み、江州での田宅横領を口実に処分させたものである。
- 金が東京留守孟庾・知陳州李正民を釈放し帰朝させた。畢良史父子の帰還の逸話も付される。畢良史は古器・書画の売買で名を知られた蔡州の人で、東明県知事在任中に集めた骨董を持って行在に戻り、高宗に重用されて「畢骨董」と呼ばれたという。
- 朝廷から金への書状で、送還される使節への謝意と新茶の献上が伝えられた。
- 二十八日己丑、翟宗が卒した。
- 二十九日庚寅、御前統制傅選が殿前司副統制となった。
八月
- 金の元帥からの書状(第七書)が届いた。陝西の境界画定(大散関を境とする案)や、南方に残る旧淮北の民の帰還の扱いなどを巡るやり取りが詳しく記される。朝廷はこれに応じ、境界確定の手続きを進める旨を返書した。