三朝北盟會編 炎興下帙 高宗 紹興十二年 八月十日庚午 1142年

王庶、卒す

  • 十日庚午、王庶が道州の配所で病没した。子の之荀・之奇は柩を江州へ運び、「秦檜、この讐は必ず報いる」と泣き叫んだが、親族はその言葉を憚って声を紛らわせたという。王庶は「当叟」と号し、遺稿は『当叟集』としてまとめられた。
  • 王庶、字は子尚、鞏州の人。宣和末に陝西転運使となり、金軍の侵攻に際し种師道の登用を進言した。建炎年間には鄜延路経略使、陝西五路制置使を歴任したが、富平の戦いで張浚が敗れ五路を失う一因ともなった。荊南知事を経て、紹興七年に趙鼎の推挙で兵部侍郎・枢密副使となったが、和議に反対したため秦檜に疎まれ、たびたび弾劾を受けて左遷を重ね、最終的に潭州での田宅占有を口実に道州へ流され、その配所で没した。

王庶家集「定傾論」(王庶が生前に著した政論集の要旨)

  • 論節槩:名節を重んじる士は治世の礎であり乱世の良薬であるとし、伍子胥が父兄の讐を報じた故事を引きつつ、靖康の恥に対して忠義の士が乏しいことを憂える。
  • 論襄漢:東晋以来、江淮を守る要地として襄陽・武昌・九江の重要性を説き、当時これらが荒廃していることを憂慮して、防備の充実を訴える。
  • 論詔令要切:詔勅は簡潔かつ的確であるべきとし、光武帝や唐の武宗の詔の効果を例に、威令の徹底を求める。
  • 論湖賊:金を「大敵」、楊么らの湖賊を「次なる患い」としつつ、湖賊は都の喉元に近い脅威であるとして、性急な討伐の危険性と慎重な対処を説く。
  • 論行法:信賞必罰の徹底を説き、漢の彭越・欒布・王恢、唐の僕固懐恩・李懐光、蜀の馬謖などの故事を引いて、法を曲げず一貫して執行することの重要性を論じる。諸将の軍がそれぞれ「張家軍」「岳家軍」などと私兵化し、互いに功を争って協調しないことも憂慮する。
  • 論先後計筭:越王勾践や秦の孝公が国家戦略を一貫させて成功した例を挙げ、朝廷に一貫した国家戦略(雪辱か富国強兵か)を定めるべきことを説く。
  • 論賞罰:漢の高祖と光武帝の賞罰の違いを比較し、過度の恩賞の濫発を戒め、信賞必罰を徹底すべきと説く。
  • 論行法(再論):法令が軍旅・地方に行き渡らない現状を憂い、唐の徳宗・憲宗の姑息と剛断の対比を引いて、法の厳格な執行を重ねて求める。
  • 論虚実用度:国土・人口の実情に対し軍費・官職が過大であることを指摘し、身の丈に合った統治と倹約を説いて結ぶ。