三朝北盟會編政宣上帙 政和七年 1117年

高薬師らの漂着と対女真交渉の発端(秋七月四日)

  • 秋七月四日、登州守臣の王師中が、遼の薊州漢人・高薬師と僧の即栄らが船で漂流し文登に上陸したと奏上した。朝廷は師中に人を募って探問させるよう詔した。
  • 経緯として、政和元年(1111年)に朝廷は童貫を副使として鄭允中とともに遼へ使いした際、燕京霍陰の人・馬植が密かに童貫に接近し、契丹が女真の侵攻で衰亡に向かっていると説き、宋への帰順を図った。馬植は上書を重ね、上は喜んで姓を李、名を良嗣と賜った。蔡京・童貫は燕地奪還を主張してこれを後押しした。
  • 薛嗣昌・和詵・侯益ら国境の臣も朝廷の意図を察して北事を唱え、和詵は雄州で豪傑を厚遇して味方につけ、燕山攻略の図を献上した。張杲・呉玠も燕雲攻略を献策し、薛嗣昌は諜報を誇張して奏上し、王機にも遼の隙を探らせるなど、開戦気運が高まっていた。
  • そこへ登州に漂着した高薬師・曹孝才・僧即栄ら約二百人の遼人が、女真の侵攻で遼領が薊から興・瀋・同・咸州まで奪われている実情を語った。王師中の奏聞を受け、蔡京・童貫は「宋初は女真と通商していた」との故事を口実に、市馬(馬の買い付け)と称して女真の実情を探らせることを上に進言し、許可された。

史料(蔡絛『北征紀實』の伝える経緯)

  • 政和元年の童貫・鄭允中の使遼時、遼主天祚は童貫に会い宋の南征意図を探ろうとしたが、当時は遼側も宋の贈物に関心を示す程度で、双方とも真意を隠していた。
  • 政和二年、燕人馬植が投じ、童貫の家に匿われた後、李良嗣、さらに趙姓を賜り修撰にまで昇進した。良嗣はしばしば天祚が先代を弑して即位した経緯を語り、朝廷を動かした。童貫は登州の海路を用いて女真との交渉を開始し、これが後の禍乱の端緒となった。

史料(封有功『編年』の伝える李良嗣の投書)

  • 政和五年三月、李良嗣は密かに雄州へ蝋弾書を送り、契丹の衰亡と女真の侵攻、天祚の失政を訴え、亡命して宋への帰順を望む旨を述べた。
  • 和詵の奏聞を受け、蔡京・童貫は招徠を可とし、四月に良嗣は雄州へ入り、まもなく都へ召された。延慶殿での上との対面で、良嗣は天祚の失政と女真の台頭を説き、宋が旧領を回復する好機であると進言した。上はこれを納れ、趙姓と官職を授けた。
  • 蔡京はこの頃、香・茶・塩・礬などの専売や和糴(強制買い上げ)で軍資を蓄えたが、実際には商人や胥吏が利を得るのみで民力を消耗させた。

対女真交渉の試行と失敗

  • 八月三日、王師中は将吏七人を選び高薬師らとともに船を出させたが、二十二日、女真の巡海兵に阻まれ上陸できず引き返した。

朝廷内の反対論(鄭居中と蔡京の論争)

  • 太宰鄭居中は女真との通交・夾攻策に反対し、朝堂で蔡京を「独断で盟約を破る挙」と批判した。真宗の澶淵の盟以来約百七十年、遼との和約により戦禍が及ばなかった実績を挙げ、開戦のもたらす害を説いた。
  • 蔡京は歳幣五十万匹両の負担を理由に開戦を正当化しようとしたが、鄭居中は漢代の匈奴・西域への莫大な贈与の例を引き、今の歳幣はむしろ低廉であると反論した。蔡京は聞き入れず、鄭居中は憤然と席を立った。

朝廷内の反対論(鄧洵武の諫言)

  • 知枢密院事の鄧洵武も出兵に反対し、童貫に利害を説いたが軽くあしらわれた。上には雍熙年間(太宗期)の伐燕失敗の先例(曹彬・潘美の敗退、趙普の諫言)を引いて上奏し、上は一時これに感じ入り、蔡京に「北事は難しければやめよ、祖宗の盟約に背くのは不祥」と語った。蔡京は色を失い、議は一旦沈んだ。
  • その後、契丹の衰えに乗じ王黼が「兼弱攻昧」(弱きを併せ昧きを攻める)論を唱えて再燃させたが、鄧洵武は財政窮乏と兵力の実情を訴えて再度これを止めた。
  • 鄧洵武の孫・鄧椿の跋文には、祖父が太宗・趙普・曹彬・潘美の故事を引いて必死に諫めたが、没後に王黼が議を進めてしまい、以後五十年近く中原が戦禍に見舞われたことへの慨嘆が記されている。

史料(朱勝非『秀水閒居録』の伝える経緯)

  • 政和末、雄州知事の和詵は契丹が燕雲の兵を増発していると奏し、燕雲でも董龎児(董才)が反乱を起こしていた。蔡京は董龎児を招き燕地の王に封じると約し、宋への帰順を図った。
  • 鄧洵武の子(鄧洵仁、時に知枢密院)が童貫に「百年の盟約を一人の叛人の言で破るべきでない」と諌めたが聞き入れられず、洵武自身も伐燕の利害二十七条「北伐問目」を上奏して諌めたが、宣和初年(1119年頃)にはついに出師するに至った。
  • 董才は易州潦水の人で、若くして貧賤の身から盗賊となり、後に契丹軍を討って帰順、政和七年(1117年)に知岢嵐軍の解潜の招きに応じて宋に帰順し、趙詡の名を賜った。

史料(趙普「諫伐燕疏」及び劄子・邵伯温の付記)

  • 巻末に、太宗朝の宰相趙普が燕雲攻略に反対して上奏した疏と劄子が付録として収められている。要旨は、出師の名分の乏しさ、民力の疲弊、契丹が遊牧の民で制圧困難なこと、秦始皇・漢武帝の教訓を引いての早期撤兵の進言などであった。
  • 邵伯温の付記によれば、この疏は崇寧年間(1102年頃)に洛陽の寺で発見されたもので、国史の記載とはやや異なる部分があるという。太祖がかつて趙普に燕雲攻略の可否を問うた際、趙普は「奪えても守れるか」と答え、太祖はそれ以降燕攻めを口にしなかった。太宗の代になって河東平定の勢いに乗じ燕薊を攻めようとした際、鄧州にいた趙普がこの上奏を行ったという。邵伯温は、趙普ほどの重臣でさえ燕雲攻略を難事としたのに、後世の佞臣がこれを軽々しく企てて大遼を滅ぼし天下を乱したことを嘆いている。