三朝北盟會編 炎興下帙 高宗 紹興十一年 十二月二十九日癸巳 1141年

岳飛、大理寺の獄中で死す

  • 二十九日癸巳、岳飛が大理寺の獄中で死んだ。子の岳雲・部将張憲も処刑された。岳飛は取り調べに応じず自白を拒んでいたが、次のような経緯があったとされる。
  • かつて岳飛が郾城から軍を返した後、ある村の寺で王貴・張憲・董先・王俊らと夜を徹して語り合った際、岳飛が「天下の事は結局どうなるのか」と嘆いたのに対し、張憲だけが「相公(岳飛)の処置次第です」と応じた。この一言を王俊が記憶しており、後に大理寺で証言を求められた際に暴露、張憲が捕らえられる端緒となった。
  • 張憲は取り調べで屈せず自白しなかったが、岳飛も当初は認めなかった。獄吏の一人が態度を豹変させ、「君臣の間に疑いが生じれば必ず乱が起きる。今上が既に卿を疑い獄に下した以上、卿が出獄すればさらに疑われ、結局は反逆せざるを得なくなる。だからこそ卿は死なねばならないのだ」と語ったところ、岳飛は感じ入り、ついに筆を執って供述書に署名したという。
  • 岳飛の死に市中の人々は涙し、大理寺丞李若朴・何彦由は岳飛の罪は徒罪(軽罪)に過ぎないと大理卿周三畏に訴えたが、御史中丞万俟禼はこれを取り上げなかった。王輔なる者が秦檜に「岳飛の反状は明白」との密告文を送り、これが岳飛の死を決定づけたとされる。李若朴・何彦由はその後、岳飛派とみなされて処分された。
  • 岳飛が兵権を握っていた頃、使者を韓世忠のもとへ遣わした際、世忠が「岳飛の元の妻は今は他家に嫁いでいる。迎えに人をやるとよい」と伝えさせた逸話、岳飛がこれに対し「妻は二度も他家に嫁いだが、その困窮を助けるため銭を送った」と応じた逸話も記される。

岳侯伝

  • 岳飛、字は鵬挙、相州の人。若くして韓魏公(韓琦)家の佃戸として耕作に従事したが、靖康末に河北招討使張所の下に投じ、三度目にしてようやく面会が叶い、その武才を認められて登用された。
  • 建炎初、王彦配下の使臣として太行山で金軍と戦い戦功を挙げるも、王彦に疑われて離反。留守杜充の下で中軍統制となり、京城陥落後の混乱に乗じて反乱を起こした劉経・扈成・戚方らを鎮圧、宜興に屯して軍紀を厳正に保ち民心を得た。
  • 通泰鎮撫使として李成配下の馬進を洪州玉隆観で破り、以後、湖南で曹成を、処州で山賊を平定。劉豫配下の李成をたびたび撃退して漢上諸州や潁昌を回復した。洞庭湖の楊么の乱をわずか八日間で平定し、行営右護軍を組織した。
  • 紹興六年、劉豫配下の諸軍と各地で交戦を重ねて連勝したが、秦檜の和議路線と衝突し、母の喪を理由に一時軍権を離れたこともあった。紹興九年に開府儀同三司。紹興十年、金の敗盟に際し曹州・潁昌・郾城で烏珠の軍を連破し、汴京に迫る勢いを見せたが、秦檜の意を受けた朝廷から十三道の班師の詔が発せられ、やむなく撤退した。この時、岳飛は「臣は漢の韓信、蜀の諸葛孔明には及ばずとも、陛下のために深く敵境に入り旧疆を回復したい」と上表したが、秦檜はこれを妬み、張俊・楊沂中と謀って班師を強く求めさせた。
  • 紹興十一年、金からの和議の申し出に対し、岳飛は「金が和を求めるのは我が国情を探るためだ」として反対する意見を上奏したが、秦檜は張俊・楊沂中と謀り、王俊・王貴に岳飛・張憲・岳雲の謀反を告発させた。岳飛は召し出されてそのまま大理寺に送られ、張憲・岳雲は激しい拷問を受けた。岳飛は無実を訴えたが受け入れられず、「秦檜という国賊の手に落ちたと今にして知った」と嘆いたという。
  • 張憲・岳雲は先に斬られ、岳飛は紹興十一年十二月二十九日、獄中で毒殺され、臨安の菜園に葬られた。天下の者はみなその死を悲しみ、幼い子供までもが秦檜を怨んだという。
  • 後年、紹興二十三年に殿前司の兵士施全が秦檜の暗殺を試みたが失敗し、法に照らして処刑された逸話、紹興三十年に金が再び国境を侵した際、高宗が「岳飛が生きていれば金軍がこうまで至ることはなかったろう」と嘆き、岳飛の廟の再建を命じた逸話が付記される。